奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

山本弘の訃報

 SF作家の山本弘が亡くなった。

 数年前から脳梗塞で倒れて、もう高度な論理性、数理性を要求するハードSFは書けそうにないと嘆きながらも、ネットで闘病記や冒険小説を書き連ねていたものを、自分も読んでいた。

 自分は山本の良い読者ではない。「と学会」やグループSNEに所属していたことは知っていたが、後者でのエピソードは、後に『ロードス島戦記』として小説化されるTRPGのプレイでディードリット役だったことくらいだ。「ソード・ワールド」の小説もまた未読である。

 『アイの物語』『神は沈黙せず』などは学生時代に読んだ。また、関西出身、在住の山本は、大阪で頻繁にファン向けのイヴェントを開いていたようだ。特撮にも造詣が深く、娘さんと共にコミケに行った話も氏のブログでの興味深い記事だった。SFが中心的な仕事でありながらも、いつまでもオタクだった。

 実は自分は、生前まだお元気だった山本に会ったことがある。それは堺市の図書館で行われたビブリオバトルを観戦しに行った時だ。それに知人が参戦するので、その応援に行った。そこに参戦者として山本先生もいらした。早い段階でビブリオバトルに興味をお持ちだったようで、ご自身が参戦することにより、その要素を知悉し、それが『BISビブリオバトル部』へと結実する。SFとそして本を愛した。読者との交流も活発だった。それはファンダム出身作家のあるべき理想の姿だ。

 約一年前、大江健三郎の訃報に触れた。山本は大江よりも20歳若くして逝ったが、同じく昭和から平成にかけて活動してきた作家だった。誰も大江や山本のようには成れないし、なる必要も当然、ない。しかし彼らの弛まざる苦闘とその業績の上に、現在の文学は成立している。

 

 

 

「ダークパターン」、そしてファイル共有ソフト

 朝は曇っていたが午前から既に雨が降り出し、夕方には雨脚も強くなった。

 通常通りの仕事だが、微細なトラブルに見舞われる。職場でもどこか道化た振る舞いをしてしまうのは、自分の悪癖なのかそれとも処世術かはたまたコミュニケイション方法なのかよく判らない。他者には迷惑だけは掛けないようにしたいものだ。

 NHKクローズアップ現代」で「ダークパターン」特集を観る。知らない内にネットショッピングサイトで不利な登録をさせられてしまうインターフェイスについての解説と被害の実例。まあ大抵のパターンには自分も引っかかっている。額としては大したことはないが、随分と高い勉強代だと改めて思う。利用規約や約款は一通り読む方だが、人間心理を突かれると定式化された規約文章を一読したのみでは何の役にも立たない。自分の粗忽さと日々進化するダークウェブを新たに知る。

 しかし、当然のことながら、顧客に必要なサーヴィスや商品を提供し、かつきちんと利益を上げてこそ、真のビジネスであり、発展的なネット技術へとつながるのではないかと、至極真っ当なことを我ながら思う。そもそも、ネットがビッグテックに牛耳られている現在が、70年代のパソコン黎明期にIBMなどの巨大企業のみがその技術を独占していた頃へとどこか先祖帰りしているかのように見えるのは自分だけか。

 夜、Amazon Prime videoで映画「Winny」を視聴。なかなか面白く観たが、金子勇氏が亡くなった今となっては、どこか視聴することが辛かった。京都府警や検察の逮捕・起訴動機も映画では明確に触れられていないことも気になったが、シミュレーション開発者としての金子氏を描いているのは良かった。
 
 最近、というか数週間前から、夜眠ると胸が苦しくなり夜中に起きる。おそらく後鼻漏が咽喉を塞ぎ、呼吸がしづらくなっていることが原因かと思われる。日中、起きて立っている分には、鼻詰まりや洟が出ることはありさえすれ、苦しい感じはしないのだが。

 注文したちくま文庫の新刊『資本論 第一巻 上』が届く。第一巻だけ上下二冊での刊行だそうだが、折角なので『資本論』全巻を出してほしいものだ。

 

 

 

お詫びと日々

 まずはお詫びを申し上げたい。
 先日開催されたゲンロン総会で頒布した拙小冊子に、誤りがありました。
 読書感想として掲載した「『失われた時を求めて』第三巻(岩波文庫)感想」は、第三巻ではなく、正しくは第二巻の感想でした。訂正してお詫び申し上げます。

 自分が書いた文章がどんなに稚拙であっても、それを粗雑に扱うことは厳に慎むべきだと改めて痛感しました。今後は自分の文章をもっと丁寧に扱い、そして厳格に管理し、必要な時に参照出来るようマインド的にも、システム的にも心がけ、実施してゆきたいと思います。

   *

 エイプリルフールも過ぎ、卯月も二日目だ。異動先には、仕事内容はそう変わらないとはいえ、まだ慣れない。花粉も飛んでおり、副鼻腔炎も併発していて、鼻で息がしづらい。昨年は気管支炎から喘息まで発症した。年を経るにつれて、春はまことに難儀な季節になってきているようだ。

 身体に不調が出ると、自然と、必然的に自身を向き合わざるを得ない。世に「身体論」と名の付く言説は多いが、自分が身体を感じる、意識するのは、こうして不調がある時、怪我をしたり病気になったりした時だ。スポーツを日常的に行っている人を別にすれば、多くがそうではないだろうか。身体が違和を持つことにより、それを感じ、そして身体と向き合う。身体は自分と完全一体でありながら、しかし最もままならない他者のようなものである。多分そのような旨の「身体論」は既にあるだろう。自分が「身体論」を記すのなら、自身から出発する他ないように思われる。

 それらは、身体が経年劣化するものであると同時に、我々の生命活動を可能にする不随意な機能を多種複雑に具えていることにも起因する。身体の衰えを、遅らせることは出来るかもしれないが、完全に止めることは不可能だ。何故ならそれは、時間を停止させることを意味する。また、消化や脈動といった身体活動を逐一意識的に行っていたら我々は生活が出来ない。一方、ひとたび不具合が生じれば、我々は不調を感じ、生活への不都合さえ到るとなると安易に放置しておくわけにはいかなくなる。消化が出来なければ腹は痛むし、血流がおかしくなれば浮腫みも起き、最悪心臓に異常を抱えているかもしれない。

 健康診断や人間ドッグの結果を見ることは、クレジットカードの請求通知を見ることと同じくらい憂鬱だ。それはどちらも支払わなければならないものがあると判っているから。前者なら現金を、そして後者なら健康を。

 医者へ通うために現金を用意する。その為に銀行口座の残高が眼に入る。そんな二重の憂鬱を我々は味わっている。それが年を取ることであり、生きることであるのだろうか。健康維持が節約だと素朴に思いつつも、自分は今日もマスクをしながら口で呼吸をし、週末病院へ行く費用を捻出するために働く。

 

 

 

ゲンロン総会と某総会

 3月30日は東京へ強行軍を敢行した後、当日中に帰宅。そして翌31日は朝から消防団の総会なるものがあった。
 
 消防団総会の内容は、団としては収支報告など大切なものだが、外部的にはそうたいしたものではない。
 
 昨日の東京行の疲労が残っており、更に身体が疲れる。4月1日から異動先での勤務がはじまるので大変心配だ。心配しても仕方も現実への影響はないのに、心配という心理は実は奇妙なものだ。
 
 帰宅後、午睡をしたあと、30日のゲンロン総会のアーカイヴを視聴。メインステージで第一部に行われていた
朝吹真理子×弓指寛治×上田洋子「芸術は想像力を拡張するのか──奥能登の経験から」、
及び川上量生×清水亮×東浩紀「AIは哲学と経営を拡張するのか」はどちらも大変面白く、ライヴで見られた方々が羨まれる。
 
 しかしながら、ブース出店したコミュニティマーケットでは、幸い頒布した小冊子は終了してありがたいことだ。

 他ブースでの販売品も複数購入出来、久しぶりに同人誌即売会的なものに出席できて、そうした面でも充実していた。購入品を読むのが今から楽しみである。

 ゲンロン総会は第一部と第二部に分かれており、第二部のチケットは未購入だと思い込んでいて、また身体的疲労もあったため第一部のみで帰途に就いたが、今しがたメールを確認していたら第二部のチケットも購入していたようだった。勿体ないことをしたなと思い、己の粗忽さを恨んだが、まあこれも仕様のないことだ。

 もう月は改まり4月である。

 今回のゲンロン総会出席を機に、もっと個人的に生活に文化的潤いを積極的に付加してゆきたい。

 

 あと先日配信されたこちらもお勧め。

 

 

嗚呼、憧れのキンメリア人

今日は非常に暑かった。夏日だ。梅雨はもう明けたんか?

ここ一箇月と半年程、仕事をやりくりして時間を作り、練習だかなんだかに時間を費やしていた某地域活動の大会なるものがあった。地域の安全のためには必要な組織、活動だということは認めるが、所属員に対する負担があまりにも重い。そもそも大会に参加するだけの人員が拙自治体では最早確保できなくなっており、ポジションによっては責任の比重に偏りがある。

ここ数年、コロナ禍で大会自体は中止となっていたが、それでも特段問題はなかった。コロナ禍前に戻すのではなく、これを契機に現状に合った組織運営をすることが肝要なのは、多くの事業に言えるのではないだろうか。

残念ながら、地方のこの某地域活動にはその機運は皆無である。

中にはこの活動を所謂サードプレイスのようにしている所属員も見受けられるが、彼らは(生物的にも精神的にも男性だと思われるから「彼ら」と称する)下部所属員に対するマネジメント等の責任を負ってはいない。「仕事なので欠席します」と言え、過去のやり方をトレースしたプロトコルを繰り返すだけだ。

もちろん、プロトコルを体得しているだけの長年の経験がることは尊敬すべきことだ。

だが、それに乗じて活動をしている態をし、大した責任を負わず積極的に参加している風を出してもらってもいざという時には上位所属員としての役割を果たしていない。短運作業や力仕事は重要で必要なことだが、それをアサインし、スケジューリングをして、下部所属員をマネジメントしてゆく責任こそが本来上位所属員には求められる。それは如何なる組織でも大抵はそうであろう。

そうした問題が改めて発覚した、見ようによっては大変興味深い行事日だった。反面教師としたい。

 

帰宅後、『愛蔵版 英雄コナン全集3』が届いていた。コナンのように、その野生的なパワーで、単身腐敗した文明の魔術師や、超常的な存在に昂然と立ち向かってゆく様は、今の自分には慰めになる。