奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

嗚呼、憧れのキンメリア人

今日は非常に暑かった。夏日だ。梅雨はもう明けたんか?

ここ一箇月と半年程、仕事をやりくりして時間を作り、練習だかなんだかに時間を費やしていた某地域活動の大会なるものがあった。地域の安全のためには必要な組織、活動だということは認めるが、所属員に対する負担があまりにも重い。そもそも大会に参加するだけの人員が拙自治体では最早確保できなくなっており、ポジションによっては責任の比重に偏りがある。

ここ数年、コロナ禍で大会自体は中止となっていたが、それでも特段問題はなかった。コロナ禍前に戻すのではなく、これを契機に現状に合った組織運営をすることが肝要なのは、多くの事業に言えるのではないだろうか。

残念ながら、地方のこの某地域活動にはその機運は皆無である。

中にはこの活動を所謂サードプレイスのようにしている所属員も見受けられるが、彼らは(生物的にも精神的にも男性だと思われるから「彼ら」と称する)下部所属員に対するマネジメント等の責任を負ってはいない。「仕事なので欠席します」と言え、過去のやり方をトレースしたプロトコルを繰り返すだけだ。

もちろん、プロトコルを体得しているだけの長年の経験がることは尊敬すべきことだ。

だが、それに乗じて活動をしている態をし、大した責任を負わず積極的に参加している風を出してもらってもいざという時には上位所属員としての役割を果たしていない。短運作業や力仕事は重要で必要なことだが、それをアサインし、スケジューリングをして、下部所属員をマネジメントしてゆく責任こそが本来上位所属員には求められる。それは如何なる組織でも大抵はそうであろう。

そうした問題が改めて発覚した、見ようによっては大変興味深い行事日だった。反面教師としたい。

 

帰宅後、『愛蔵版 英雄コナン全集3』が届いていた。コナンのように、その野生的なパワーで、単身腐敗した文明の魔術師や、超常的な存在に昂然と立ち向かってゆく様は、今の自分には慰めになる。

 

 

「ゆるさ」と自由、そして哲学のスタイル

東浩紀著『観光客の哲学 増補版』(ゲンロン)が届いた。「はじめに」、各翻訳に書き下ろされた序文に、新章二章を加えた充実の一冊だ。パンデミックが起こり、戦争が始まって、一見すると「観光」の危機のように思われるが、しかしその内容が提起する議論はいまだに色褪せていない。寧ろ翻って、「観光」「観光客」を鍵概念とした哲学の提示は、その重要性を増しているよに思われる。もしくは、『ゲンロン0 観光客の哲学』が出版された六年前と較べてその問うている議論の意義が変わっているとも言える。

 

私は著者の熱心で良い読者ではない。東の著者を初めて読んだのは、自分の世代にはおそらくよくあるようにそのデビュー著作である『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(新潮社)である。帯に書かれた浅田彰の文言はやはり印象的であった。

ついで『動物化するポストモダン』、『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』、そしてメルマガ等で発信された『波状言論』や『網状言論』から、『ファウスト』(講談社)での評論家育成企画などまでを一読書人として時折読んできた程度である。

なので、氏がコンテクチュアズを創業し、『思想地図』(NHK出版)からタイトルを引き継いだ『思想地図β』は当時未読だった。そして東日本大震災が起きた。

 

氏の活動に再度注目するようになったのは、実は『ゲンロン0 観光客の哲学』からである。当該の著書は、『一般意志2.0』『弱いつながり』の内容を引き継ぎ、著者の本格的哲学書として観光された。一読、これは全く新しい哲学書だと強く感じた。そこでは、人文学者としての哲学の訓練と、今までの著作活動の実績、そして人生経験の上に築かれた、著者らなではの深く広範な、そして現代を論じながらも過去から未来さえ見通そうとする議論である。しかも、過去の哲学者や現代の数学論を引用しながらも、非常に自由な文章スタイル。氏のいう「ゆるい」哲学がそこにはある。

 

「ゆるい」とは、つまりは自由ということだ。しかしそれは単に野放図、無秩序、身勝手とうものではない。確かな哲学的学識と、広い好奇心と、使い洞察、そして緻密に構築された議論に根ざして、それを自由に、多くの人々に届くように苦心して書くことである。そうした文章は「ゆるい」。しかし、その「ゆるさ」とは、なんと重い「ゆるさ」だろうか。自由であること、自由を引き受けることは、かくも途方もない責務を引き受けることなのだ。

そうした「ゆるさ」つまりは自由に書かれた『観光客の哲学』が、装いも新たに読めることは大変喜ばしい。しかも、その議論は深まり、かつ「家族の哲学」として、次著である『訂正可能性の哲学』へと繋がっている。哲学は自由に変化していく。それは人の生き方が変化することに似ている。人は生きてゆくにつれ、変化していかざるを得ない。そして哲学は生きられねばならない。そうであるならば、哲学もまた自由に変化して然るべきである。

氏の今後の仕事が、そうした困難な生を励ますものになることを期待してやまない。

 

 

朝日新聞社神戸市局襲撃事件の日

今日は憲法記念日だ。

と同時に、朝日新聞社神戸市局襲撃事件があった日でもある。

1987年5月3日夜、朝日新聞社神戸市局に散弾銃を持った男が押し入り、一人の記者が殺害され、別の記者も重傷を負った。1990年まで続いた「赤報隊」を名乗る人物による一連の事件の一つに数えられ、言論に対するテロ行為として位置つけられている。当事件は2002年に時効を迎えた。

近年、言論界やマス・メディアだけではなく、政府要人を直接的に狙ったテロ行為が目立つ。憲法記念日であると同時に人命をも奪った新聞社襲撃事件という言論へのテロ行為が起きた日であることを鑑みるに、今改めて、平和、自由、民主主義、そしてそれらを取り巻く政治や言論について深く考える、またそこまででなくとも思いを巡らすことが大切になってきているのだろう。それはある一面において、非常に厳しく、残念なことではあるのかも知れないのだが。

 

 

春なのに……

弊勤務先では年度末だ。別段新入社員でも、転職予定者でもないので、特別な感慨はない。一年分の書類整理が面倒なくらいだ。

大江の諸作を読みながら、最近村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいる。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』そして初期の傑作『羊をめぐる冒険』はある時期まとめて読んだが、その続編的位置にある当該書は買ったきり未読だった。4月には新作長編も出るらしいので、それにもちょっと触発された感じ。

大江と村上を比較しようとする意図は、特にはない。敢えて少し言及すれば、やはり村上の文章が圧倒的に読みやすいことだ。数日前に偶然見つけた村上のエッセイ『職業としての小説家』を少々再読してみたら、その性質やテーマ上とても読みやすかった。逆に歯応えを感じない程だ。無論、村上のエッセイが須く読みやすく、物足りないというのではない。『文藝春秋』に全文が掲載された父親との関係を描いた『猫を捨てる』、そして村上の90年代の転機となったであろう仕事『アンダーグラウンド』のとくに「あとがき」など、特に後者は今でこそ改めて読むべき文章だとさえ思われる。たまたま『職業としての小説家』の面白さが、今の自分にジャストミートしなかっただけだろう。その本がジャストミートするという言い回しは、大江によるものだが。

大江の死去に際して、『新潮』の2023年5月号が早速追悼特集を組んだようだ。恐らく目ぼしい純文学系の文藝誌は特集を組むことだろう。テレヴィの報道では、政治活動的な側面ばかりにフォーカスされていた。メディア映像に残っている大江の姿が、改憲反対運動集会や、原発再稼働反対デモを中心に露出していることが多いからだろう。しかし、短時間でそうした部分しか報道できないことが、つまり文学的実績について、テレヴィ的、映像メディア的にアプローチできないことが、現在の映像メディアの限界な気もする。もしかしたら、ネットで質の高い大江追悼特集が何処かで配信されているのかも知れないが。

 

昨日久しぶりに飲みかけのワインを少し呑んだら、寝起きに咳が出た。世の中にはアルコールに起因する喘息があるらしい。前回久しぶりに飲酒した時は大して酔わず、特に体調変化もなかったのだが、用心に越したことはない。物事との付き合い方も変えていくのが、歳をとることなのだろう。