奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

みのりちゃんがプリキュアになった日

以前は最速上映会とかに行っていた。田舎に引っ込むことになって、それも叶わなくなったが、それでも映画事情には不便ではない。

と、云うことで、 ここ数年では毎秋恒例の今年度のプリキュアの映画、「魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身! キュアモフルン!」が先の10月29日土曜日に公開されたので、勇んで観にいってきた。以下、その感想を書く。

 

【注意:以下、映画の内容に激しく触れます。未観の方はご注意下さい】

 

 

100年に一度目覚めると云う〈願いの石〉。その目覚めのを祝う為に開催された魔法界のフェスティバルに、三人と一体は内田校長に呼ばれる。石の目覚めと共に、配られたミラクル熊ライトに願いを込めると、最も強い願いを持つ者の願いが叶うと云うのだ。

そして、最も強い願いを持つ者として、 〈石〉に選ばれたのが、嘗ての日向みのりちゃんこと、我等がモフルンだった——。

しかし、〈石〉が目覚めるや否や、悪しきクマ——アクマのダークマターが乱入。圧倒的な力でプリキュア三名を蹴散らし、〈願いの石〉とそれに選ばれたみのりちゃん——ではなくモフルンを何処かへと攫って行ってしまった……。

みらいは落ち込み、周囲も顧みず単身モフルンを探そうとする。彼女を追う、リコとはーさん。

気付いたモフルンは、周囲に自分と似たクマが沢山いることに気付き、彼等彼女等と仲良く遊ぶ。それはそれは仲良く遊ぶ。まるで誘拐れたこと等嘘か夢であるかのように楽しそうだ。正直、みらい達のことすっかり忘れてやしないかと心配になる程だ。まァ、その反面、モフルンと別れ別れになったみらいの憔悴が引き立つのだが。

しかし、そこにまた悪しきクマ——アクマのダークマターが現れ、モフルンに自分の願いを叶えるように迫る。みのり……モフルンは拒絶するが、もしモフルンが自分の許に留まるのなら、プリキュアの三人には手出ししないとダークマターは云う。

モフルンは彼女達を傷つけまいとして、迎えに来たみらいを拒むのだが、ダークマターが二人の前に立ちはだかり……。

 

モフルンが三人から離れると云うことは、みらいとリコは変身出来ないことを意味する。そうすると戦闘は、専らはーさんことフェリーチェ担当になる。しかも、襲ってくるのは闇の魔法つかいや、ムホーを駆使する〈終わりなき混沌〉の眷属ではないので、おいそれと花魔法のエメラルド・リンカーネーションで撃退することは出来ない。そこで多用されるのが銀魔法のリンクル・ピンクトルマリンだ。これは結構使い勝手が良い。シールドとして敵の攻撃を受け止め、それを撃ち返すと云う攻守共に応用出来る。ピンクトルマリン大活躍だ。しょうがない、フェリーチェ、他に技ないもんな。

だが、そこは流石はーさんことフェリーチェ、心を通じ合うのは人だけではない。ドラゴン相手にも仲良くなり、味方にしている。全く頼もしい。魔法界の生物を仲間に出来るなんて、そっちの方が本領なのではと思う程だ。

そんなこんなで、再会したと思ったモフルンとみらいだが、みらいは変身出来ず、ダークマターに捕らわれてしまう。その時、〈願いの石〉とモフルンの意志が反応し、奇跡が起きると云う訳だ。よく奇跡の起きるアニメだな。主人公の一人がキュアミラクルなだけに……。

その奇跡とは、勿論この映画のハイライトであり、事前にテレヴィスポットでも華々しく紹介されていたモフルンのプリキュア変身である。

あの「モフモフモフルン、キュアモフルン!」と云う奴だ。

これが凄い。何とテーマソングまであり、キュアモフルンが活躍するシーンの劇版として掛かる。しかも、歌っているのが元祖にしてスーパーシリーズシンガーである五條真由美だ。作画もクライマックスに相応しく、スピーディでアクロバティック、そしてパワフルだ。凄いよモフルン。凄いよ大田寛和さN。流石はみのりちゃんだったよ齋藤さん‼︎

加えて、キュアモフルンには、ミラクルやマジカルと呼応するように、花魔法のカラフルスタイルがある。ルビーとトパーズだ。正直、元がイエローなので、トパーズスタイルだと何処が変化したのか一見しただけでは判らないが、兎に角三人が同じスタイルで共闘するのは興奮する。そして、無論、ここまできたら、アレキサンドライトスタイルも存在する。しかも翼まで付いている映画オリジナルのスーパープリキュア仕様、ハートフルスタイルだ。みんな揃って「虹の彼方に——」である。

そんな、素晴らしい活躍ぶりのキュアモフルンだが、ダークマターの真意に気付いた時、モフルンはその攻撃を一身に受け止めて力の源である〈願いの石〉ごと砕かれてしまい、喋らぬ元のぬいぐるみへと戻ってしまう。今までの活躍から一転して、もう、話すことも動くこともなくなったモフルン。みらいと意思疎通することもないモフルン。……果たしてモフルンはまた喋って動けるようになるのか? そして、プリキュアとして再起することがあるのか?

その結末は、皆自身の眼で確かめて欲しい‼︎

……と、今回はあらすじを中心に、ダラダラと書いてきたが、もっとテーマ別にも、他シリーズの劇場版と比較して書けたらと思ったりする。

しつこいようだが、スプラッシュ☆スター好きの自分としては、どうしたってみのりちゃんと被せてしまいのは仕方ないのでご容赦願いたい。

ちゃんと可愛らしいデザインなのに、戦う時は凛々しく格好良くても違和感がないという、凄まじい東映アニメーション・クオリティだった。

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「刑事コロンボ」と物証、自白

もう10月も早下旬だ。今月は、薄給にも係わらず、買い喰いはするわ、本は買い過ぎるは、分不相応な買い物をし過ぎた。猛省。

最近になって、漸く「刑事コロンボ」を全て観終えた。残っていたのは、

「死者の身代金」

「もう一つの鍵」

「死の方程式」

「黒のエチュード

の四編だ。

どれも皆相応に愉しめたが、あからさまな証拠であっても、それを立証として強固なものにする為に、コロンボが労力を掛け、ロジックを詰めるのは流石である。これは、彼が絶対的に犯人を逮捕しなければならない職業としての探偵、詰まりは警察官だからこその緻密さだろう。

同じことが、鮎川哲也の諸編等にも見て取れる。短編等のノン・シリーズものの主人公であっても、警察官が主だ。そして、彼等はその職業上の責務から、単に合理的な推理に到達するだけでなく、ある時は現場に足を運び、自身の推理の合理性を確認し、そして確たる証拠までも揃える。一部の安楽椅子探偵や、素人探偵とはその、物的証拠によって絶対的に容疑者である犯人を断定する所がこだわりであり、面白さである訳だ。

無論、安楽椅子探偵ものや、結末が論理の域を超えてしまったようなものがいけないと云うのではない。「刑事コロンボ」や鮎川作品の面白さは、その証拠の行方によると思われる。

 

しかし一方、単に証拠固めするだけでなく、個人的にはコロンボが犯人を嵌めるパターンの方がより一層愉しい。犯人しか知り得ない事柄をほのめかしたり、ブラフでボロが出るように仕向けたり、犯人の意図に乗っている振りをして、その裏を掻いたりと云ったものだ。

そうして嵌められ、有無を云わさぬ自白を知らずに行ってしまった犯人は、哀れであり滑稽である。そこに抵抗の意志は最早見られない。今まで散々我等がコロンボ警部に付き纏われ、陰々といじめられ、精神的に疲弊している犯人は、ガクンと顎が外れんばかりの表情をし、遂には無抵抗に投降するしかないのだ。全く、ロス・エンジェルス市警には、酷い警部がいたものである。

 

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「昭和の戦争」と「ポニョ」

抽象的で、主張めいたものも、結論めいたものもない文章を取り留めもなく書くのは、凡そやってはいけない表現だろう。詰まり何が云いたいの? と問われるのが落ちだし、それは真っ当な意見だ。

今日は何時になく歩いた所為か(勿論仕事でだが)、脚が疲れた。兎角運動を積極にすることはないし、今後もないと思われるので、体力がないのには自信がある。まァ、偶にはいいのだろう。10月の割に暑かったが。

本は、夏からこの方、井上寿一『昭和の戦争』(講談社現代新書)を読んでいる。複雑な状況が、個人の思惑を超えて、悲劇へと次第に突き進んでゆく様が、当事者達の日記から描かれる。文体はドキュメントに相応しく淡々としていて、それが否応なく現実を伝える。正に迫真である。章は真珠湾奇襲をし、アジア戦争、当時の日本の云う大東亜戦争へと突入した。

また、ここ数日、ドキュメントヴィデオの「ポニョはこうして生まれた」全5巻を漸く見終わった。宮さんにカメラを向けているだけで大抵は面白く観られるが、客観的に映しているのはいいが、宮さんの本音や意見の部分をもっと訊き方次第では様々に聞き出せたのではとイマイチなのが正直な感想である。それは「夢と狂気の王国」でも同じことが云えた。

 

と云う訳で、その延長で今日は「崖の上のポニョ」を視聴。劇場での視聴も含めて、幾度観たか判らない。初観の時から「ポニョ」は大袈裟ではなく腰が抜ける程凄い映画だと思った。ファンタジーとしてもだ。宮さんのイマジネイションは、正に一足跳びである。

また、ここに介護施設である「ひまわりの園」が出てくる。そこで車椅子で過ごしているお婆さん達の描かれ方が、今個人的に気になるある解答となっていることに最近気付いた。それについてはまた 機会を改めて書きたい。

フィクションとイマジネイションは、真実どうかは別にしてそれらは自由であると素朴に、そして心から信じたい。

 

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言葉を伝えることについて雑感

昨日の続きめいたものを書こうと思う。

表現と伝達、殊に書くと云う表現についてだ。

 

以前、参加している文芸同人で、凡そ表現者たるもの、その創作を通じて相手に何事かを伝える努力を怠ってはならないという趣旨のことを云われた。

正直、ショックではなかった。そうした考えは、至極当然なことだとも感じた。

しかし、自分個人は、特段そう考えていた訳ではない。それは或る種のアマチュア根性なのかも知れない。詰まり、自身が自由に好き勝手に書けるのなら、読者に伝える何事か——即ちテーマと云ったものが、不在でもよいのではとさえ考えていたのだ。

だが、その言葉は心に残り、時には心底に沈殿し、また時には意識に浮上することがあった。今でもそうだ。それはその当時、そして現在も、自分が仕事において言葉が伝わらないことに対して悩む、と云うよりは寧ろ障壁を感じていたのかも知れない。

自分の言葉(この場合は話言葉だが)は、他者には伝わらない。自分の言葉は聞かれないと云う 思いが大変強かった。それは、分別ざかりとは遠い、自意識過剰な稚拙な悩みなのだろうか。多分そうなのだろう。しかし、実生活でそれは深刻なのだ。営業職に就く、未知のお客と話す。そして、自分の性格に信頼を感じて貰い、その果てに必要を喚起された商品を買って貰う——これらは、相手との対話なしには成し得ない。それが成し得ないと云うことは詰まり、自分の言葉は伝わらず、相手の聴覚を刺激していたとしても、その意味するものは心には届いていないと云うことだ。

そうした状況もあって、自身の創作の世界だけは、謂わば自分だけの王国でありたい。あってほしいと無意識に思っていたのかも知れない。だがら、そこに相手に伝えるべきもの等必要ない。大袈裟であることを承知で云えば、自分の完璧な 藝術世界に他者等不必要だとすら、かなり意識して思っていたのだ。

そうした考え、若しくはスタンスが間違っているとは今でも思わない。そして、それが正誤で判断される性質のものでもないと思われる。

だが、嘗て、テキストとは開かれたものだと思っていた頃もあった。文章は、それのみで完結していると同時に、各所へのリンクを内包している。それは、論文の巻末に載せられる参考文献や註釈等であり、それ程明確でなくとも、本文への引用然り、また、本文から喚起される別な作品への連想である。

そうした作品の持つリンク、広がりは、読書体験を通して一個人の内面を拡張してゆくことに他ならない。そうした内的リンク、広がりは、一方で、書き手から読み手へ対する、伝えるべきものにも成り得るとも、牽強付会を承知で思う。

会話は、否応なく眼前の相手を想定する。相手の言を汲み、それを考慮して、自身の思いを伝えようとする。特に仕事におけるそれ、実生活におけるそれが巧くいっていないと云うことが、長年の自分の躓きの石であるようで、翻って自分が書いてきた創作に、他者へのメッセージを必要としない、寧ろ意識的なまでに拒絶する方へと、自分の心理は働いていたのかも知れない。

実生活の話し言葉についての個人的な問題は、ここで一旦擱く。

同人にしろ、また新人賞に応募するにしろ、そしてこうしてブログで拙文を垂れ流すにしろ、書き言葉に関しては、こうして発信する機会が多様にある。そこでは、否応なく、相手=読者を意識せざるを得ない。書き言葉と話し言葉は、今持って自分の意識の上では、分離している。しかし、こうして書き言葉に、なにがしかの心を込めれば——それが未だ独り善がりな、取り留めもない独白染みたものだとしても、他者へと伝わる言葉への訓練にはなりはしないだろうか。

ここでは、まだ何を自分が考えているかと云う混沌とした段階に留まってい。正直、譬え極く個人的なブログであっても、正直発信する程のものではない。だが、その蛮勇を敢えて冒し、今一度、創作の完成の果てに、読者が存在していることを強く意識したい。それが、文章のリバビリであり、訓練であり、創作への次元へと繋がるのではと思う。

創作は、自分の想像のその限界を突き抜けなければならない。しかしそれは、一見して荒唐無稽なものに陥りがちだ。だが、その想像の限界を超えたものを、読者に伝えることが、窮極的には創作の醍醐味なのだ。

 

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言葉についての個人的問題——話し言葉編

丸善ジュンク堂ネットストアの延長で、hontoを利用している。紙の本と電子書籍のサーヴィス・フォームだが、自分は専ら紙の本を注文するのに使っている。電子書籍は、iPhoneで一時期利用したことがあるが、最近は紙の本へと回帰してしまった。iPhoneだとデヴァイスとしてはちょっと小さいのだろうか。かと云って、KindleiPadを用立てる目処が(金銭的に)立たない。

不景気なことは、今に始まったことではないが、今月はしかし本を買い過ぎた。しかも、嘗て持っていて、数年前引越しをした際に手放してしまったものが多い。今日届いたのは、アメリカでもドラマ化され、最近エミー賞まで受賞したほ「ゲーム・オブ・スローン」(邦題)の原作である「氷と炎の歌」第3部『剣嵐の大地』上中下の三巻だ。

何故か第四部『乱鴉の饗宴』は手許に置いておいたのだが、一部、二部、そして今回再購入した三部は里子に出してしまったので、しかも三部は未読だったりしたので、今回改めて購入した。ファンタジー熱が高まったか……。

 

それにしても、最近幾ら本を読んでも、相手に何事かを伝えるということは、自分にとって永遠の課題だ。それはコミュニケーションとも云えるかも知れない。酷い云い訳を承知で申せば、性格的に他者と意思疎通を図ろうとすることは苦手だった。苦手というより、自分個人がその必要性を本能的に感じられていないかも知れない。

かの伝説的編集者・花森安治は、読者が判り易いように工夫して書けと云ったそうだ。そして、そのコツは、話すように書くと云うことらしい。だが、自分自身にとって、書くことと話すことは、別な行為——のような気がする。書く時と話す時では、別な脳の部分を使っている気がしてならない。明治 期、新たな日本語を創り、日本人の知的向上に貢献した言文一致運動にはそうした意味でも頭が上がらないが、書くにも話すにも、自分にとっては意識的な訓練が必要だ。兎角、不特定多数の未知の他者を想定し、その方々に「判り易く」アウトプットする、就中「書く」ことによって伝達することにおいては。

言葉を遣う、もとい司るのは、或る種のセンスでありインスピレイションである。例えば営業職で、相手との何気ない会話から、セールス・パーソンにとってお客から必要な情報を引き出すことは、多少は経験で補えるかも知れないが、自分の仕事と、お客たる相手に対する興味に由来する、その場その場のライヴ的オーラル・パフォーマンスである。

しかし或る人々は、自分も含めて、自身のことを語り勝ちだ。そして同時に、他者に関心が薄かったりする。賢人は、譬え自己の性格がそうした独り善がりなものであったとしても、他者と、延いては社会と折り合いを付け、上手に仕事でもプライヴェートでも結果を出すのだろう。それが経験を積んだ分別ざかりと云うものだ。

ところが他方、自身の言語伝達能力、即ち、自分の発話を判り易く相手に伝え、それを用いた会話から自分の意図する相手の情報や感情を汲み取ることに不得手な、本性的内向型の人間もいる。それは若しかしたら、単に実生活や仕事を行うだけでなく、凡そ表現者として不適格なのではなかろうか。

そうした内省と打開の願いを籠めて、このブログはあるのだが。

三十代は嘗て分別ざかりと呼ばれた。その年齢に差し掛かって、自分は大して経験やインスピレイションに裏打ちされた分別を持つに到っていない。そこには、言語の問題が横たわっているような気がしている。自分の口語は、社会ではそう役に立たないという実感が、ここ数年頻りとするのだ。言語による社会との和解、若しくは格闘が、 自分の「分別ざかり」の年代の主題となるような気がしてならない。

 

今回は、珍しく自分のそうポジティヴはと云えない、しかも極く極く個人的な話題を書いた。相変わらず、読者に伝わり易いとは云い難いが、今回は問題提起編その1だ。

次は、書き言葉に関して、自分の思っている、感じている、諸問題を書きたいと思う。少しは読者に届くよう、また、有益な話題になるよう余り気張らずに、しかし微力を尽くしたい。

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休日の過ごし方——或いは岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」を観て

と、云う訳で、10月も既に下旬だ。

どうしても、うかうかしていると、長文を書く習慣が乏しくなってしまう。その習慣化、もとい嘗てのリハビリも含めて、また、常日頃考えていることを再確認、あわよくば再発見する目的で、このブログを始めたものだが、一箇月に一本記事を書けは良い方になってしまっている。

由々しき事態だ。まァ、そんなに大袈裟なものではないが……。

大体休日においてもそうだ。前日、若しくは当日朝から、その日1日何をするか、幾つか具体的に予定を決めておかないと、ダラダラと本を読み、午睡をし、1日が終わってしまう。無為こそ最高の贅沢だというのが個人是ではあるが、もう一寸生産的に人生を過ごしたいという、人並みな欲求もあるにはある。

以前は、ブログを書くにも、ある一個のテーマを決めて(例えば読んだ本の感想等)書こう書こう、そうした方がリーダビリティも高いと云われていて、そうしようと試みてきたのだが、中々、ネタ自体は幾つかあるが、それを巧く、ひと纏まりの文章にして提出するのは、元来の怠惰な性格故か、続かない。

そもそも、そう質の高い文章を書く技能もセンスもない。これも由々しきことだ。

なので、正に日記的に、その日の出来事や雑感を書いて行く当初のスタイルに戻そうと思う。そうすれば、多少は更新頻度も上がる——かも知れない。ようは、或る程度の分量を書くことが、今は肝要である。

 

今日は、以前勧められていた、岡本喜八監督版 「日本のいちばん長い日」(1967年)を観る。モノクロ映像と、仲代達矢のナレーションが、原作のドキュメンタリー性を際立たせている。昨年の原田眞人監督版と較べて、鈴木貫太郎へのフォーカスは少なく、三船敏郎演じる阿南陸相がソフトのパッケージにもなっている。だが、原田版と比して阿南の場面が多いとは感じない。寧ろ、終戦路線の内閣と陸軍との間で葛藤し、立ち回る姿は、原田版に較べて余りないように思われた。

しかし、三船を始め、昭和顏の俳優陣が、演技にリアリティを与えている。以前黒澤明は、時代劇を造らなくなるに当たって、侍顏の日本人がいなくなってきたと云ったそうだが、そろそろ昭和顏の日本人も少なくなってきているか。

時代のもを撮る、しかも、映像が残っている近代ものを撮るにおいて、それも深刻だろう。だが、今の俳優が、今の演技で、時代的な迫真性を演出することにもまた期待したい。懐古するのは簡単で愉快だが、幸か不幸か時間は先に進むものだ。

岡本版の本編には、時折実際の映像が挿入される。それは学徒出陣の光景であったり、玉砕した人々の姿だったりする。それがノンフィクションとして、戦争の悲惨さを伝える。映画の最後で、仲代のナレーションが、日本はこうした愚を繰り返してはならないと云うが、しかし、戦争の悲惨さを訴えるだけでは、今はもう戦争は防げないのではないか。

ああした悲惨な目に遭わない為にも、先制攻撃が必要だ——そうした言説は、現代において確実に説得力を持つ。

火垂るの墓」を映画化し、戦時に無力な子供達の末路を容赦なく描いた高畑勲は、同じ理由で、件の映画に反戦の効果は、既にないと云っていた。戦争の悲惨さを知ると同時に、それは、起こってしまったら、誰彼構わず、その戦禍を逃れる術はないと理解し身に染みることこそが、現代の厭戦に対して必要だと思われる。

「殺したくない」と云う強い意志こそが。

 

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もう直ぐ10月——後インプットについて

と云う訳で、9月ももう直ぐ終わってしまう。実は、もう終わっていると半ば思っていたのは内緒だ。

大体9月も末になると、数年前に遭った碌でもないことを思い出すので、余り今何時だっけとか、努めて考えないようにしているのだが……。

 

毎秋恒例と云うか、Appleの新作発表会があり、自分も多くの(?)方々と同じくMacBookの新作 ——具体的には、MacBook Airの新作——を期待した訳だが、触れらりたりはしなかったようだ。

まァ、ドル箱がiPhoneだから、仕方ないというものだろうが、MacBookを買い換えるなら、最近出た新作をと常々思っている身からしたら寂しい。もう三年も音沙汰なしかと思う。

しかしながら、iPhoneも買い換えて二年が経つので、次は「7」にすると云うのも一つの手だが。

 

話題は変わるが、夏休み前でなくとも、計画を立てるのだけは何時も愉しいものだ。それは読書計画も然りである。だが、いざ、それを実行する段になると、その計画通りには往々にしてゆかない。テキストエディタに、チェックボックス付きで、読みたい本を優先順に列記してゆくこと程、悦に入ることはない。読む気もあるし、読んだら面白いことは判っている。だが、不思議と、その通りにゆくことは少ない、と云うか、ない。

大体、「いざ、読む」と云うような、気張ったことは、殊読書に関してはしない。気が付いたら、何か読んでいる。読む行為にシームレスに移行しているものだ。そもそも、人に「貴方、息していますか?」と訊く者があったら、大方奇異に感じるだろう。読書もまたそんな感じだ。詰まり、レヴェルとして呼吸と一緒なのである。

 

しかし、例えば映画やテレヴィドラマとなると、若干違う。それは毎週観ているようなテレヴィアニメ等でもそうだ。あれには一寸した心構えが必要だ。一種の非日常へと入り込むと云う覚悟のようなものだ。気持ちやテンションを、そっちへと持っていかねばならない。だが、テレヴィや映画の方が受動的である。こちらか積極的に頁を捲らなくとも、情報は向こうの方から視覚を通じて飛び込んで来てくれる。そうした意味では、一度気持ちが乗ってしまうと楽かも知れない。

 

因みに、最近読んだ本、見た映画等は以下の通り。感想はまた今度。そう云えば、アウトプットの方が、インプットに較べずっと難しい。勿論、インプットもそれ相応の難しさがあるのだが。

 

最近読んだ本↓

最近観た映画↓

最近聴いた音楽↓

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