奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

亀山郁夫訳『白痴』第二巻

光文社古典新訳文庫から、亀山郁夫訳『白痴』の二巻目がこの頃出た。一巻目から随分と時間が経っている印象だ。ドストエフスキーの『白痴』は、新潮文庫木村浩訳、そして河出文庫の望月哲男訳と、二訳読んだ。亀山訳に限らず、古典新訳文庫は、「読書ガイド」として解説がまた充実している。勿論、新潮文庫河出文庫も著名な訳者が解説も担当しているのだが、亀山自身が『カラマーゾフの兄弟』に始まり、『罪と罰』、『悪霊』、そして小説である『新カラマーゾフの兄弟』と、研究者、翻訳者、そして実作者として培ってきた経験と実績を活かし、より充実した「読書ガイド」が特徴的だろう。

中でも、「読書ガイド」にすら、クリフハンガー的に、興味の湧く話題を先延ばしにする書き振りが読者の興味を惹く。ドストエフスキー自身、本人が締め切りに追われ、更には債鬼に追われて否が応にも読者の興味を惹くものを書かざるを得なかったからか、冒険小説の技法を習得していると云われるように、章や節の引きがオーソドックスでありながらも巧みだ。まさかそれが訳者解説でも使われるとは思わなかった。

例えば、ムイシュキンの云う「ナスターシャが戻ってきた地獄」とは一体何なのか——訳者による答えは、一巻で提示されたこの問いの答えは、まだ二巻の解説では出ていない、と思う。作品が書かれた時代背景や、用語解説、また文化や習慣の紹介等も当然充実しているが、一部の哲学入門と名の付く本に見られるように、研究者としての見解が濃厚に展開されていることは、一作品で二度、更には三度と愉しめる読書となる。『白痴』は全四巻の予定らしいが、『カラマーゾフの兄弟』の最終巻や、『悪霊』の別巻で詳細な自論と研究成果を展開した研究者としての訳者が、『白痴』において通してどんな論を開示してくれるか——作品そのものの翻訳も愉しみだが、「読書ガイド」の方もまた、作品本編と相補完的、または相乗的な効果を期待する。

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読書と云う沃野

そう云えば、昨日はヴァレンタイン・デイだったそうだ。職場でチョコレイトを頂いたりと幸い無縁ではなかった。昔は甘いものが大好きで、それこそ吹き出物が出来る程食べたいと思った程だが、味覚や好みが変わったのか、チョコレイトが苦手になった訳ではないが、嘗て程積極的に食べたいとは思わなくなっていることに気付く。

それも、若しかしたら一過性のもので、数箇月後にはもそもそと買い喰いしているかも知れないが。

いずれにしても、味覚は獲得形質らしい。なので、初めは苦手なものでも、そればかり食べていると、慣れれて好きになるそうだ。好みが多い方が愉しみも多く、また可能性も広がるので越したことはないが、我が身を振り返ってみるに、アレルギー等ではなく、単に好き嫌いが多いことに気付く。例えば学校給食で苦労した思い出はないが、かと云って、現在苦手としているものを克服しようとまでは正直思わない。全く、自分勝手なものだ。

 

殊に喰わず嫌いは、読書においてもそうだ。別段、お金を払って本を購入するからと云って、所謂ハズレを引きたくないと云う訳ではないが、どうも気に入りの作家や、特定のジャンル小説ばかりに偏り、読書の分野うあジャンルを広げてゆこうとする意欲には乏しい。世の中には、フィクション、ノンフクション問わず様々な本が出ているので、手当たり次第読めばよいのに、例えば、現役作家等は敬遠しがちだ。

結局手許には、ドストエフスキーの『白痴』の翻訳が三種類も揃うことになる。

 

その打開策として、外部の読書会に参加するのは一つの有効な方法である。他者の決める課題図書は、そこでなければ決して手にしないものも少なくない。そして、それは得てして珠玉の一冊の場合も多々ある。

 

現実は、実のところ拡張することはない。まァ、多くの場合、袋小路の行き止まりだったりする。若しくは像の踏んだ御手洗団子みたいに、もう何処から手を着けたら良いのか判らなくなっているものだ。

しかし、読書生活は、契機さえあれば、次々に思わぬ出逢いへと発展してゆく。読書生活程、無限に広がっている沃野はないのだ。

 

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文章をかくことについて——文芸同人の外部合評会を終えて

気が付いたら、如月ももう半分が過ぎようとしている。

先月の末に流感に罹って、一週間程豪い目を見たりしていたら、何事もすることもなく、また、折角お誘い頂いた約束も 反故にせざるを得なくなり、何時も以上に無為に過ごしたここ数週となった。新しい「プリキュア」も始まってしまったと云うのに、碌でもない為体である。

ブログも、もっとコンスタントに書く書くと、常に宣言しているのとは裏腹に、結局先月は一つしか記事を書いていない。本来なら、読んだ本の感想とか、観た映画の雑感とか、テーマを絞って書けばよかろうものの、また今回も、近況報告めいた放言でお茶を濁すことになりそうだ。まァ、自分の為にやっていると思って大目に見て下さい。

 

近況と云えば、先日また関西に行く機会があった。そちらでやっている文芸同人に所属させて頂いており、毎年一冊同人誌を出すのだが、今回も執筆者として拙作を載せて貰い、その外部合評会が開かれた為だ。

具体的に同人名や、同人誌の名はここでは明らかにしないが、小説を書く習慣を身に付けられればと思ったのが、参加し、今日までお世話になっている動機の一つである。

しかし、年に一冊こうして同人誌が出、出来の巧拙に係わらずそれなりの体裁のものは、掲載して頂けることに、逆に慣れて、若しくは狎れてしまっている感がどうも個人的には、ある。

本来なら、毎日数頁でもコンスタントに、正にこのブログでやろうとしているように、書き続け、複数の小説を書き上げ、技量の上達を図ることが目的である筈なのに、年に一回発表出来る場があるからと、余り良くない意味で頼ってしまっている自分がいるような気がするのだ。それは非常にパッシヴなことで、創作と云う孤独と積極性を方法とする分野には、そぐわないのではあるまいか。

——と云うようなことを、今回の外部合評会で、個人的に感じた。それを反省として、ブログも、創作も、兎にも角にも文章を一定量書き、そして完成させることを更に習慣付け、同時に、それをより良く出来るよう、方法的に行って行きたい。

自己のやり方に内省的に触れるのは、凄く恥ずかしいことであるのだけれども、それもまた、自分が一つの作品を創作しなければ出来ないことである。ブログにしろ小説にしろ、文章を書くこと、言葉による創作、自分にとって常に模索だ。

 

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新年の挨拶

年が改まった。

今回は、年末から例年にもまして、季節感を抱かなかった。クリスマスの時も同じだ。過去、特に子供の頃は、クリスマスや年末年始と云ったら、それ相応スペシャルな気分にもなっていたと思うが、旧年本年はそうでもない。歳を取った云うことなのか、それとも季節感自体が喪失しがちなのか……。

だが、それは別段寂しいことでも、悲しいことでも、況してや残念なことでもない気がする。それは多分、旧年は、顧みても、新しいことがあり、お世話になった人がいるからだろう。

 

或る所で、旧年印象に残った本として、平山夢明著『ダイナー』(ポプラ文庫)を上げたが、最後に読了した本は夏目漱石『門』だった。旧年本年は漱石イヤーらしく、岩波からも新たな全集が刊行予定らしい。全く結構なことだ。しかも、『門』の最後の 方は、年末年始に掛けての出来事なので、妙な同調もあった。実生活よりも寧ろ、宗助の生活に感情移入するように季節感を得ると云うのも、おかしなことだ。

『門』は、問題が何か解決した訳ではないが、そしてまた、宗助はその問題に対して、積極的な解決の為に能動的に対処しようとする行動的な主人公ではない。それでも事態は推移し、事は移り変わってゆく。それは人生が続く限りそうだ。仮令単に死なない為に生きているという消極的な生活であっても、何某かの出来事は、我々の上に降り掛かる。それは大江健三郎の云う「個人的な体験」なのかも知れないし、「人生の親戚」を伴うものかも知れない。

ともあれ、いずれにしても正面から相対するか、または両手で顔を覆っても、その中を突っ切るようにして遣り過すしかなく、回避することは出来ない。

そうしたことは、旧年もあり、そして本年もあることだろう。それが生活の一部だからだ。

 

何だか、何時ものように取り留めもなく、抽象的な話題になってしまったが、本年も、皆様が健康で、面白い本を沢山読み、その度に人生の哀歓を感じられるような年になることを、祈念申し上げます。

 

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自由への渇望と超越者への反逆——ハーラン・エリスン雑感

霜月から何時の間にか師走に這入ったが、色々やることはあるものの、中々手が出せていない、若しくは進捗自体が思わしくないこの頃である。

 

そんな愚痴は良いとして、最近は近隣の市で開かれた読書会「やつはみ喫茶読書会」へ参加してきた。この読書会への参加は二度目だ。初めて参加した前々回はエラリー・クイーン『九尾の猫』、欠席した『ノックス・マシン』を挟んで、今回はハーラン・エリスン『死の鳥』(早川文庫)である。

エリスンの『死の鳥』は、以前の記事でも書いたが、待望だった。てっきり、国書刊行会が「未来の文学」のラインナップの一冊として予告していた、SF以外の作品集『愛なんてセックスの綴り間違い』(仮題)の方が先に出いるかと思っていたくらいだ。

『死の鳥』は、主に60年代終盤から70年代に掛けて、日本で翻訳されながらも、単行本に纏まっていなかったものを集めている 態である。どれも、エリスンのエッジの利いた作品が多い。

かなり昔の学生の頃『世界の中心で愛を叫んだ獣 』を読んだうろ覚えの記憶を引っ張りだしてみれば、いささか作品世界のスケールの壮大さには欠けるような気がするものの、幾つか目立ったテーマのようなものが、各作品に散見される。

それは、 キリスト教の神——所謂超越者に対する反逆であり、また、絶望的とは判っていても、自由への飽くなき希求である。渇望とすら云っても良い。或いは、運命か……。

自由を求めることは、他者によって築かれた檻、簡単に云えば、他者によって引かれた線の向こう側へ移行することを意味する。線を引く他者、檻に閉じ込める他者とは、無論超越者のことであり、主人公達は、その彼方への脱出を図ろうとする。

それは詰まり、一方で、彼等彼女等がそれを望んでいるにしろ、そうでないにしろ、線を超えて、超越者の位置に行こうとする行為だ。自らが、超越者——神の側へと立とうとすることを、幾つかの諸作品はテーマにしているように思われる。

しかしまた、SF——それがサイエンス・フィクションと訳されようとも、スペキュラティヴ・フィクションと訳されようとも——とは、常にそうしたテーマを意識するしないに係わらず具えたものではなかったか。

ある種の化学論理をそのルールに則って過激に突き詰めた結果、彼等彼女等は何時しかその線を超えている。それは超越者を想定した上でのその否定である。それを、科学と論理と、そして想像力で以て、小説という表現形式を借りて行うのが、多分自分思い付いたSFだ。

想像力は無限大である。そして、被造物でありながら想像力を持つ我々は、フィクションの力の元に、超越者の引いた線を超え、神の側に 立つ——自由と超越者への反逆をテーマにしたエリスンの諸作品は、その蛮勇のスマートな表れである。

 

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上洛 in 霜月

暫く書かないでいたら、もう霜月も下旬だ。それなのに、余り寒くはならない。紅葉もちらほらとは聞くが、そんなに見掛けもせず、季節感も感じないこの頃だ。

 

話題は変わって、19日の金曜から週末に掛けて、嘗て暮らしていた関西へ行ってきた。関西もまた、日々暖かく、歩いていれば汗が出てくるくらいだ。

それにしても、今年春以来三度目くらいの上洛だと云うのに、色々と様変わりをしてている印象を受けた。建物が取り壊されていたり、新たなテナントが這入っていたりと、商業施設や建物の変わりが激しい。数年もすれば、「あれ、ここ前何があったんだっけ?」と思い出せなくなっているだろう。(今、現にそうだ)。

上洛の目的としては、大学祭と参加している文芸同人の合評例会だ。大学祭は、一応OBであるサークルが毎年このシーズンに刊行している 会誌を購入する為である。お世話になった人も見掛けたが、忙しかったので挨拶もそこそこにさっさと退散する。

文芸同人の方は、今回が作品提出をする当番回なので直接参加することにした。毎度毎度大したものが提出出来ず、また今回更に完成度が低いのでいたたまれない。種々の意見を糧に、精進出来れば……。

ただ、以前大変お世話になった方々にも、こうして離れてしまっても、良くして頂いているのは、本当に幸福なことだ。その気持ちだけは嘘ではないし、恩返しが中々出来なくとも、忘れたくない。

 

そんなこんなで、高速バズで往復した道中だったが、意外に車内で読書も出来た。長時間のバズは快適とは云えないし、時間も掛かるが、賃金的にも仕方がないだろう。早く、新幹線が利用できる身分になれるよう、励むのみである。

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自ら傷を受けること——「映画プリキュア」所感

週は明けて、みんな大好き月曜日だが、昨日観た「映画魔法つかいプリキュア!」の熱が未だ冷めやらぬ。

よくよくネットを閲覧していたら、嘗て住んでいた洛中のT-joy京都では、斯様な素敵イヴェントがあったそうな。「映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!」公開記念 あなたが決める!プリキュア映画ベストセレクション+最新作ミラクル上映会 in T・ジョイ京都 う、羨ましくなんかないもんね……

 

そんな素敵イヴェントに敗けない(?)ように、自分も持てる機器を導入して、三作を一気観しようと思ったが、そう云えば「映画ハートキャッチプリキュア」のソフトは持っていなかった。残念無念。こう云う時はシームレスにネット購入へと移行するものだ。

 

「ハートキャッチ」、「ドキドキ」、そして「ハピネスチャージ」は、どれもドラマ性が際立っていることは勿論、映画ならではの挑戦にも意欲的だ。それは、プリキュアがその身を呈して、護る為に傷つくシーンと云う形で描かれる。 ブロッサムが、ルー・ガルーとなったオリヴィエの攻撃を受け止めるのも、ラブリーがドール王国の真実を知って傷つきながら落ち込むのも、そして一見過激に見えるハートの流血も、皆自ら壁を作らず、相手を受け入れると云うことの一端である。 傷つくことは、誰しも痛く、厭なものだ。しかし、相手を理解し、共感しよう、更には助けになろうとする思いの結果として、伝説の戦士達は自ら身を呈して傷つくことを厭わない。単に戦うだけではない、それが伝説の戦士たる所以だから。

 

無論、そこで一方、初期作品の頃に敵対していた、許されざる絶対悪をどう描くかは、また問題になってくる。近年のシリーズは、どうやらその方へと、敵の造形は舵を切っているようだ。

 

自分から痛みを堪え、傷を受け入れることで、敵である相手に届く——この三作ばかりでないが、そのテーマがより際立つのが、今回T・ジョイ京都のイヴェントにて選ばれた三作に共通するテーマの一つではあると思われる。 人は、必要な苦難こそ選べれども、他者の為に傷つくことは選ばないし、選べる程強くもなければ利他的でもない。そして、その行為にどれだけ意味か図らなければ動くことをしない。だが、自己防衛としてのそうした無為を、非難することは出来ない。それは誰しも共通する事柄であり、心持ちであるからだ。 だからこそ、せめてフィクションの中で、譬えそれが単純化された形であったとしても、理想化された物語を観ることで我々はカタルシスを得ることが出来る。 そして、本命の視聴者である子供達は、将来実生活を重ねる内に、日常に埋没し、忘れていってしまっても、一度本能的に印象に残った、原初的なフィクションのイメージやテーマは、契機すらあれば思い出す。思い出さないまでも、それは根底的な人格形成に繋がる。

 

正しさとは、相対的なものだ。時と立場が変われば一変する。それでも、人は基準なしには生きられない。その大切な基準の要素となるものが、フィクションの力だと信じたい。

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