奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

ウエスタンとノスタルジー

入梅の季節だが、一向に雨が降る気配もない。

最近は、と云うか以前からそうだったが、頭の 箍が外れているのか何なのか、矢鱈と本を買う。しかも、帰郷してこの方、ネットの便利さを知ってしかも新刊情報とか届くので、購入は非常にシームレスだ。まぢやばい……。

 

別段映画も観ないし(そういえば、「ゴースト・イン・ザ・シェル」すら 観なかった)、本も、何時も読んでいるものが、注文通りに届くくらいだ。最近、スティーヴン・キングの〈ダークタワー〉パート4、『魔道師と水晶球』が届いた。新潮文庫で持っていたが、引っ越しの時に売ってしまったので、丁度角川から出ているのを再購入しているものだ。本としては新刊な訳だから再購入と云うのもおかしいが。

しかし、キングにしろ、文庫化して毎月出ている荒木飛呂彦の『スティール・ボール・ラン』にしろ、最早読んでいる動機は、それが面白かったからと同時に、ノスタルジーである面が強い。それは古き良きアメリカであり、しかも作者が創作した架空のアメリカなのだ。それが〈中間世界〉であり、また特異点を超えて一巡した宇宙のアメリカであることがその証左でさえあるように思われる。

それに、ウエスタンに挑み、今更こんなに面白く創造出来るのは、もうキングか荒木くらいしかいないのだろう。ウエスタンであることが既にノスタルジーなのである。

 

と、取り留めもなく書いてみた。そんな分量でもない。最近、きちんとした構成の文章が書けなくなっている気がする。それは言語を司る脳の器官が衰えたのか、単に昔からそうだったことに気づいたからなのかよく判らない。若しかしたら、リハビリでどうにかなるのかも知れないが、そんなリハビリの産物を読まされる親愛なる読者は堪ったものではないだろう。その点は書き手として猛省したい。

 

とまれ、それこそキングも折に触れて云っているが、偉大なる諸氏よ、よき本を読み、お互い出来る限り良い人間であるようにしたいものだ。次にまた会う機会に恵まれようものなら、それこそ信じてもいない神の采配なのだろう。

 

 

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皐月も終わる訳だが……。

気が付けばもう皐月も終わりだ。

今月は黄金週間もあり、人の誘いもあって、東京へSFセミナーに参加したりと、書くべきこと、書こうと思うことは滅法あった訳だが、どうも上旬からこっち、日頃の行いが祟ってか、風邪気味で、身体の懈さは抜けても、終いには副鼻腔炎を起こしてしまう始末だった。

また、消防団の活動がいよいよ本格化し、それに反比例するように、自分の心理的バラメイターはダウンしてゆくばかりで、まァ、日々を何とか頬被りで遣り過ごずのが精一杯と云った所だ。

その為か、今月は映画も一本も観ていない。テッド・チャン原作の「メッセージ」等、観たい映画にも事欠かない筈なのだが、日常に埋没し、詰まらぬ噂話やら空談に耽っている、所謂ダス=マンに成り下がっている気がする。

怠惰さこそが、自分の人生の醍醐味ではあるのだけれども……。

 

そんなこんなで、しかし本ばかりは通販で買ってはいるものの、気軽に読めそうな新書が多い。衣替えをした途端、梅雨入りで気温も下がりそうな予報であるが、体調だけは充分に気をつけたい。未だ習慣化出来ていないブログでさえ、書く体力と気力を失くしてしまう程なのだから。

 

世間も世界も生活も、時を経るご毎にキナ臭く、一見碌でもない方へしか向いていない気がするが、多分事実そうなのだろう。それに失望も絶望もすることなく、また非現実的に楽観するでもなく、淡々と、事務的に生活を送ることが出来たら、自分としてはなんと素敵なことか。

気分の昂揚は、読書と、映画と、そうした藝術と云う非日常で充分だ。

あ……読書はもう食事と同レヴェルで日常なのだが。

 

季節の変わり目なので、皆さんも体調にはお気をつけ下さい。

 

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桜の季節ですね

気が付けば卯月も終わろうとしている。

桜も地元では漸く咲き揃い、春めいてきていて、気もまた滅入る。五月病とは違い、春は気が鬱ぐ季節だ。きっと花粉症だからだろう。後、気温が高くなってくるのも影響しているのじゃあないか知ら、多分……。

 

ふと、家人に、お前は桜を見て何か感じる所があるのかと訊かれた。数秒思案したが、ない、と素直に答えた。桜を見た所で、特別な感慨を抱く訳ではないと。

そんな自分が素人の手遊びとして小説らしきものを書いているのだから、おかしさを通り越して滑稽ですらあるとも付け加えておいた。

例えば一千年前は花と云えば橘で、桜が花の代名詞とされるのは後のことらしいが、それでも桜は、往時より多くの人々によって、その様子やそれから受ける感興を表現されて来たと思われる。和歌を幾首繙いてもそれは容易に知れることだ。だから、また多くの人々が思ったように、桜を単に美しいと表現することには抵抗がある。別な表現で以て、或いは今までにない新鮮な感慨を、桜と云う一種のモティーフに託して受け手に届けるのが、表現者としての欲求の一つだ。

それは純粋さや素直さに欠けた心持ちかも知れないが、凡そ表現の面白さとは、そこへの努力に大いに拠るのではなかろうか。

多分、そうした自分の表現技術のレヴェル以上の欲求を抱くのが、桜を見て、いや、俺は特に何も感じないと云ってしまうことへの理由の一つだ。事実、桜を見れば春が来たことを否応もなく知る。すると気が滅入る。斯様に、自身の心は動く……。

しかし、そうした自身の心を、また桜に対して多くの人々が抱くであろう心情を、率直に表現したくはない。そこに独特なものを加えたい。それは下手糞な料理によって、素材そのものの味を台無しにするような結果になってしまっても、自分はそこに何か、自分たけの味付けを加えたいのだろう。誠、表現者気取りとは、厄介なものだ。

「桜は美しい」 ——その一言に到達するまでの道のりは、自分にとっては万里の距離であり、また平坦ではない。その為に、言葉を遣う。或る時は分析的に、そして或る時は綜合的に。

そうした詩のなり損ないが、今の自分の表現なのです。

 

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習慣にしたい、ブログくらいは……。

正味な所、特に内容に拘らなくとも、文章の練習も兼ねて、折角ブログをやっているのだから、毎日書いた方が良いのは明らかだ。本来なた、一つのテーマ、やったことや読んだ本、観た映画や聴いた音楽等の感想等に絞って書いた方が、アウトプットも兼ねていて、インプットを書き手側の血肉とする好機なのだろうが、取り立ててテーマもない。そりゃあ、本は毎日読んでいるが、読み切って、尚且つそこから汲み取ったものを伝達する為に加工するのは、時間と労力が掛かる。そして、自分は実に怠け者だ。

だから、大抵ここでは最近読んでいる本の広告を貼ってお茶を濁している訳だ。

と云っても、ネットが個人単位にまで普及し始めた90年代に、既にパソコン通信を始めて今でも個人のホームページに日記を掲載している知人等は、本当に毎日の出来事を軸に書かれている文字通りの日記だ。ただ、そこには時事的な話題にしろ、最近を読了した本についてにしろ、書き手の鋭い考察、感想、その他が表れているので、流石なのだが。

書くことについて上達したいと云う気持ちはあるものの、こうしてブログなりで拙文を世界に向けて発信してしまうと、それだけで満足してしまうのも危険な心理だ。実は、文芸同人にも参加している。年に一冊同人誌を出すのだが、希望すれば拙作を掲載して貰える。それだけで、拙作の出来具合、その巧拙如何に関わらず、そうなってしまえば、こちらは一仕事終えた気がしてしまう。同じように、これも危険な心理だ。それは、成長や上達を著しく阻害すると云う意味で。

形あるものが眼前に提示されれば、どうやら満足してしまう怠惰な傾向が自分にはあるらしい。らしいと濁したのは、結局完成品として提出したものを読み返すと、粗ばかりが眼に付いて製本された同人誌にすら赤入れをしたくなるからだ。だったら、草稿の段階で出来得る限り推敲しておけよと云うことなのだが……。

……と、柄にもなく弱気なことを書いた。これが内省になっていれば少しは救いだ。表現と伝達は、被る部分もあれば、そもそも言葉が違うが故に異なった概念だ。そこが自分にとっては、非常に難しい。他者に伝えたいことがあるのかと自問すれば、具体的且つ明確な答えは、今の所持っていない。だが、表現欲求は、まァ、それなりに持っている。それは自慰だろうと指摘されれば、うん、とも、はい、とも肯定するのに吝かではないのがネックだ。

すると表現する者は、作り手と批評家に分裂してることに越したことはない。嗚呼我ながら凡庸な意見だ。大方そうなのだろうけれども。しかしそれ以上に、書くことと書き直すことを習慣化することが肝要だ。それは凡庸かも知れないが、重要だ。

習慣が、どうやら生活、延いては人生を形成するらしいから。

 

 

最近聴いた曲

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燈を点けよう、雪洞……人生に。

気が付けば弥生だ。月初はそんなことばかり書いている。

これでも一応社会人だが、特段異動やらの人事的なことには今の所関わりがないので、年度末、年度始めは、特に変化はないであろう。周囲は大変そうなのだが。また、変化がないことが良いことなのかそうでないのかは、まだ判らない。往々にして、人生は放っておくと良くない方へと流れてゆくものだ。そして最後は吹き溜まりのどん詰まりである。良くしようと欲したらば、変化に飛び込むしかないのだろうか。サルトル、若しくは大江ではないが、《見る前に跳べ》だ。

 

如月は初旬から流感に罹ったりして、約束していた「虐殺器官」や、予定していた「この世界の片隅で」等、全く映画が観られなかった。今月も車検や免許証の更新等があり、何かと出費が激しいので、映画または本への投資を削らざるを得ないだろう。しかし、また観ていないものや、読んでいないものが多々あるので、それ等を消化する機会だと考えたい。手持ちのもので如何に効果を出すと云うことは、何においても必要な創意工夫だ。

 

今年も既に四分の一は過ぎてしまった。良い加減百枚位の短編を完成させなければならない。それにはその為の時間を確保せねばならない。そう考えると、やることは目白押しだ。兄弟との会話のノリで、アニメ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」とか息抜きに観ていたが、それもしつつ、過ぎてゆく時間も惜しんですらいられない。と云うか、時間の経過を惜しむことって、実は不毛な感傷なのではなかろうか……。

 

そんなことで、花粉と暖かさから来るダウナーな気持ちと、そして五月病に彩られた春を、皆様が無事謳歌されることを祈りつつ、まァ、感想はまた機会があればと云うことで、以下最近読んだ本や映画等を列挙して、今回はご勘弁願う。オ・ルヴォワール(←熊倉一雄ヴォイスで)。

 

・最近読んだ/読んでいる本

 

・最近観たBD

ニチアサが我が家さ

遅ればせながら、「動物戦隊ジュウオウジャー」を最終回まで観た。その感想について書く。

 

【以下「動物戦隊ジュウオウジャー」の内容について触れます。未観の方はご注意下さい!】

 

スーパー戦隊シリーズも、「ゴレンジャー」から数えて通算40周年だそうだ。なので、途中で「ゴーカイジャー」が出てきたり、映画では嘗てのレッドが出てきたりと、35周年目の「ゴーカイジャー」程ではなかったものの、この機に合わせたスペシャルな企画をやっていたように思える。

最初、ジューマンの四人が着ぐるみ出演だったことから、若しかしたらずっと着ぐるみのままかと思いきや、そんなことはなく、王者の資格の力で人間の姿にもなれると二話目で発覚した。そのままジューマンでいってくれたら、結構チャレンジングだったのではと実は期待したよ。

王者の資格の一個が失われ、ジューランドに帰れなくなる等のシリアスな事情が当初からあったものの、基本はコミカル路線で、最初は敵として登場したザワールド門藤操ことみっちゃんにしても、自分に自身のない若干コミュ障気味の面倒くさい奴(とナレーションのチョーさんにも紹介されていた)だったり、他の五人と仲良くなろうと奮闘するシーンや、失敗して落ち込むシーンがあったりした。だが、単にコメディなだけではなく、他人と仲良くなろうとし、失敗して落ち込んでも、それを糧に仲間と打ち解けてゆく部分も描かれ、ヒーローに変身して活躍しても、人間はコンプレックスやそれ故の弱さを持っている。そして、それを克服するとはいかないまでも、自分の一部として受け止められることに気付く。

それは、みっちゃんだけでなく、終盤近くの大和にしてもそうだった。普段は優しく包容力もある気の良い大和も、父との断絶と葛藤から苦悩してたことが唐突ながらも最終決戦が迫るにつれて明らかになる。そこには、人間に対するジューマンの閉鎖的考えに絶望し、ジューランドを飛び出したバドが関わっていたことも。

ただ、敵であるデスガリアン側にドラマが余りなかったのが物足りない気はした。途中、第三勢力として巨獣ハンター・バングレイが登場したが、梃子入れ的に強敵が投入されることはなかったものの、クバルの復讐心や、アザルドの正体等、もっと掘り下げても良かったのではと思う。

まァ、今作は人間とジューマンの交流が主題で、敵は飽くまで倒すべき地球の敵でしかないのだから仕方ないが。

一年間観ると、終わってしまった感慨も一入だ。それにしても、主演を張った俳優陣は皆二十代前半から半ばと若い。一年の長丁場で、スタッフ共々体調管理も大変だろうし、苦労は絶えないと思うが、これを一つのジェンプ台として、次のステージに羽ばたいて貰いたい。

 

後、一年間観続けた原動力の一つは、矢張りナレーションがチョーさんだったことも大きい。「侍戦隊シンケンジャー」に続いてのスーパー戦隊シリーズ出演なので、意外にシリーズへの登場は少ないから、今後とも顔出しとまではゆかなくとも、ニチアサでチョーさんの声がもっと聞きたいと云うのは、一ファンの希望だ。

 

次回作は、いきなり9人登場とのことだ。ロボットだけでなく、ヒーローもどんどん増えていって、正直覚えられないよ。

亀山郁夫訳『白痴』第二巻

光文社古典新訳文庫から、亀山郁夫訳『白痴』の二巻目がこの頃出た。一巻目から随分と時間が経っている印象だ。ドストエフスキーの『白痴』は、新潮文庫木村浩訳、そして河出文庫の望月哲男訳と、二訳読んだ。亀山訳に限らず、古典新訳文庫は、「読書ガイド」として解説がまた充実している。勿論、新潮文庫河出文庫も著名な訳者が解説も担当しているのだが、亀山自身が『カラマーゾフの兄弟』に始まり、『罪と罰』、『悪霊』、そして小説である『新カラマーゾフの兄弟』と、研究者、翻訳者、そして実作者として培ってきた経験と実績を活かし、より充実した「読書ガイド」が特徴的だろう。

中でも、「読書ガイド」にすら、クリフハンガー的に、興味の湧く話題を先延ばしにする書き振りが読者の興味を惹く。ドストエフスキー自身、本人が締め切りに追われ、更には債鬼に追われて否が応にも読者の興味を惹くものを書かざるを得なかったからか、冒険小説の技法を習得していると云われるように、章や節の引きがオーソドックスでありながらも巧みだ。まさかそれが訳者解説でも使われるとは思わなかった。

例えば、ムイシュキンの云う「ナスターシャが戻ってきた地獄」とは一体何なのか——訳者による答えは、一巻で提示されたこの問いの答えは、まだ二巻の解説では出ていない、と思う。作品が書かれた時代背景や、用語解説、また文化や習慣の紹介等も当然充実しているが、一部の哲学入門と名の付く本に見られるように、研究者としての見解が濃厚に展開されていることは、一作品で二度、更には三度と愉しめる読書となる。『白痴』は全四巻の予定らしいが、『カラマーゾフの兄弟』の最終巻や、『悪霊』の別巻で詳細な自論と研究成果を展開した研究者としての訳者が、『白痴』において通してどんな論を開示してくれるか——作品そのものの翻訳も愉しみだが、「読書ガイド」の方もまた、作品本編と相補完的、または相乗的な効果を期待する。

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