奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

日記とブログ——「ほぼ日手帳2018」発売を前に

学生の頃は、特段手帳は使わなかった。当時はまだ、今で云うガラケーフィーチャーフォンばかりだったし、海外ブランドの携帯電話と云ったらノキアが上がる時代だったので、携帯端末でスケジュール管理をしていた人も周りにはいなかった。

大学生になっても、カリキュラムは毎週決まっているし、テスト期間中は、キャンパス内の掲示板に日程が貼り出されている。アルバイト先からはシフト表が配布されるので、出勤日はそれで確認すれば良い。また、友人関係は少ないので、プライヴェートの案件も暗記出来る程度に僅少だった。

 

社会人の真似事をするようになってからか、何時の間にか手帳を持つようになった。ほぼ同時にスマートフォンも使うようになる。iPhone5が最初だ。AppStpreのカテゴリー「仕事効率化」が好きなので、気に入ったものを購入することになる。googleカレンダーiPhoneのタスクと同期させ色々試しているが、未だトライアルの最中だ。

 

手帳は本来なら携帯するものなのだろうが、しかし自分は主に日記として利用している。日記は以前も書こうとしたことがあるが、だがいずれも三日坊主に終わってしまっていた。ところが、手帳に日記を書くようになってから、既に三年以上継続している。

 

その手帳とは、ご存知の方も多いだろう、「ほぼ日手帳」だ。

「ほぼ日手帳2018」よこくカレンダー - ほぼ日刊イトイ新聞 このエントリーをはてなブックマークに追加

 

頁面積が大きい方が書き易いと思い、ここ数年はずっとオリジナルよりも広いカズンを使用中だ。一日一頁という編集も、日記として使い勝手が良い所以だろう。但し一日分の頁しか主に使っていないので、始めの方にある見開きのマンスリーや、時間順のヴァーティカル等の頁が白紙の儘なのは、勿体無い所だ。別段全ての頁に何か書かなければならない道理もないのだけれども。

 

日記とは云っても、ほぼ感想や意見めいたものはない。記憶を頼りにして今日一日何をしていたかの記録を取っているのが主だ。時々読んだ本や観た映画等の感想じみたものも書いたりもする。後、チケットや半券を貼付するくらいだ。

日記を始めとした記録の醍醐味の一つは、過去のものを読み返すことにある。しかしそれも余りしない。家計簿は別に付けているので、日記に一元化もしていない。流感に罹った時等は、朝昼晩と体温を記録していたりもしたが、それは特例的なノートだ。それも含めて、自分にとってその時々のことが特筆されているのだろうと、こうして振り返ってみると改めて思う。絵心もないので、イラストでカラフルな感じもしない。Jetstream0.5mmのブルーインクで、それが切れたら取り敢えずブラックインクで文字だけを書いているので、一年経っても大変地味な出来になる。「自分らしさ」とか「個性」とかは、凡庸で手垢の付いた感じがするので遣うのが躊躇われる語彙だが、そうした地味さこそが、自分自身の毎日=日常を端的に表している気がしないでもない。

 

人がブログを書く目的は様々で、中にはダイアリーとして書く方々もいらっしゃることだろう。そんな素養も実力もないので、 このブログがエンタテインメント的なコンテンツになろう筈もないが、しかし日記を別にしているので、このブログは単なる個人t系なダイアリーではなく、公開しても、まァ多少は愉しんで頂けるようなものにしてゆきたいとは一寸は思っている。

文章は、書き付ける対象によってその種類が異なるのは、或る意味当然のことだ。日記として使用している「ほぼ日手帳」を他者に披露することはその性質上ないだろう。それがこのブログとの大きな違いである。矢張り個人的に書き、読むだけのものと、少なくとも他者に閲覧されることを意識したものとは明らかに書き手側の心持ちも異なるものだ。何か今回は、よくよく当たり前のことを書いているなァ。反省。

 

九月になれば、「ほぼ日手帳」の来年版が発売される。まァそれに肖っての投稿なのだ。予定管理には「ほぼ日weekly」を使用している。坂本真綾とコラボしたものが欲しいなァと思っているのは内緒だ。書いちゃったけれども。

新しいものは、手に入れば気持ちいいものだ。それにここ数年継続しきた習慣なので、よくよくのことがなければ来年も日記を書き続けるだろう。それは単に日常の行動記録に過ぎないが、書くことは読むことと同じく生きることだ。

 

そうは云っても、今年もあと四箇月程だ。来年も皆さんにとって良い年でありますように。またそれまで、お互い良い本を沢山読み、可能な限り有能な人間でありたいものだ。

 

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お盆の始まり——或いは実写版「ダイヤモンドは砕けない第一章」感想

お盆の初日だ。若しかしたら、引き続き夏休みかも知れないし、明日からお仕事の方もいるやも知れない。本日お仕事だった方もいることだ。皆ぞれぞれお身体には気を付けられたい。

 

 

カレンダー通りの三連休だったが、迎え盆で墓参をした位で、特段の外出等もしていない。自宅でのんびりと云っても、日中は大変な酷暑で、午睡しているだけで熱中症になってしまいそうだ。

 

11日の金曜日に、先日公開した実写版「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない第一章」を観た。

格段の期待も持たずに行った為か、特にネガティヴな印象はそう大きくは抱かなかった。只、もう原作連載当時からして、荒木先生も意識していたことだそうだが、ああした二世代位前の如何にもな不良的キャラクターを演じられる役者は、もういないのではと思ってしまう。無論、東方仗助は、リーゼントヘアなだけでそれ以上に不良ですという設定はされていない。また、原作漫画でも既に当時はリーゼントは古いとされていたと原作者も漫画文庫版のあとがきで書いていた。なので、時代錯誤は原作にすでにあったのだが、しかしその言動は一時期を席巻した不良漫画のキャラクターを髣髴とさせる。時代が原作連載当時からも十年以上経ってしまったので、そうした不良を演じるのは、役者としても難しいのかも知れない。

嘗て黒澤明が時代劇を撮らなくなった頃、その理由を訊かれ、「侍の顔をした日本人がもういない」と話したらしいが、今は昔の不良も既に遠くなりにけりなのかも知れない。

 

しかし、CGを用いたスタンドバトルは、結構迫力があって、楽しめた。また、最初の敵である片桐安十郎も、山田孝之の好演で、不気味さと不敵さを出している。神木隆之介演じる広瀬康一も安定していたし、空条承太郎役の伊勢谷友介もがたいは兎も角、長身と渋さと、若干の若々しさがあって良かった。が、承太郎のトレードマークである 後頭部が髪と一体化した帽子までは表現しなくとも良かったのではないかと思ってしまった。普通に被っていれば良かったのに……。

 

ストーリィは、大分コンパクトになる予感がする。杉本鈴美や吉良吉影登場のほのめかしはあったが、正直露伴先生とか出てくるのか、かなり微妙だなと感じた。続報も出ると思うので、気になる方はお待ち下さい。

総じて高評価と云う訳でもないが、低評価とも思わなかったが、正直に云うと第二章観に行くかどうか未定だなと思ってしまったことが、自分がこの映画に対してどう評価してしまったかを無意識に物語っているのかも知れない。

自分の心こそ、不明だ。

 

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ヒーローの説得力

先週から公開されている「キュウレンジャー・エグゼイド」の映画を、公開当日に観てきた。ヒーロー二本立てで約90分だ。

仮面ライダーエグゼイド」は、副題で「トゥルー・エンディング」と銘打っていて話題になっていたが、確かにその通りだった。別段ネタバレと云う程でもないのだが、余りそこに言及することは控えてく。

 

春の映画でもそうだったが、「エグゼイド」は今回の事件の中核には、子供がいる。それは未就学児をメイン視聴者にした番組だから当然と云えば当然なのだが、今回の舞台が病院で、主人公達がドクターと云うこともあり、中々困難な病気を抱えている子供と云う設定が共通していた。

 

以前、「映画ハピネスチャージプリキュア!」を観た時も、同じような境遇の子供がゲストとして登場しおり、事件の深い要因となっていたことを思い出す。

彼等彼女等は、実のところ仮面ライダープリキュアがどれだけ強くても、それだけでは救うことが出来ない存在である。

「エグゼイド」の子供ゲストは、バグスター感染症であると同時に脳腫瘍を抱えているし、「ハピネスチャージ」のつむぎは、脚が動かず、バレリーナの夢を諦めなければならなかった。

無論、物語——と云うか番組のコンセプト上、ライダーやプリキュアが腕力に物を云わせて戦うことにより、救われる。それは、脚本がそうなっているからと云えばそれまでなのだが、その解決に説得力を持たせることは容易ではない筈だ。

自分達が幾ら腕っ節が強くとも、救えない——それはヒーローとしてのアイデンティティすら脅かしかねない。しかし、ヒーロー達は、真にヒーローであるが故にそれ等の困難を乗り越えてゆく。見せ場も盛り込んだ上で、ご都合主義に堕していることはない。

特に、「エグゼイド」は主人公がドクターとして生命の大切さを説きながら、死んだと思っていた人間が、バグスターとして蘇ると云う離れ業を物語の設定として持ってきている。これは、一歩間違えれば白けてしまう危険さえある。ストーリィの面白さと共に、その上で生命の掛け替えのなさと死への恐怖を同じ比重で描くことが相俟って、そうした設定を持ってきても説得力を備えているのだろう。

それは、映画にも共通することで、問題の原因となっている敵を鉄拳で粉砕するだけでなく、問題を抱えている子供ゲストの心も救わなければ解決しない。ゲストキャラの心に届く行いと言葉でその心を救わなければ全く解決しないように、同時に視聴者に対しても同じ説得力を持って訴え掛けなければ単なるご都合主義になってしまうのだ。

 

ヒーローも万能ではない。そして腕力が強くても解決出来ない問題は実際にも山のように存在する。しかし、それに臆することなく、立ち向かうこと、そして乗り越えること、それがヒーローのヒーローたる条件である。

同時に、それは視聴者に説得力を持ったメッセージやストーリィを伝えることと同義なのだ。

 

「エグゼイド」も今月で終わりである。明らかに真のラスボスに相応しい奴も登場し、派手なバトルは勿論のこと、要所要所を盛り上げる、上述したような説得力のある緻密なドラマにも期待したい。

 

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感情ではなく孤独が人間の証明

嗚呼、前にこのブログを更新してから、早一月以上が経つのだなァ……。

皆さん、酷暑と突発的局地的豪雨の中、如何お過ごしでしょうか。被災された方々には、お見舞い申し上げます。昨年は、実家付近でも水が出、道路が冠水し、自身も消防団として出動する事態になった。

四川省の観光地では地震も起き、自然相手とは云え、被害の甚大さには心が痛む。避難はそこに住む人々の生活を一変させることだし、復興と云うものの大変さも、我々は二つの震災から既に学んでいる筈だ。

 

個人的には、ここ一箇月程で特段の変化はない。そうそう変化等あっては困りものだが、変化というのは、先に触れた災害は無論のこと、ある時は突然に、またあるときは徐々にやってきていて、気が付いたら変わっていたと幾パターンもあるものだ。今の所、自分への変化があるとしたら、後者なのだろう。その変化の行く先が、幸か不幸か、吉が凶かは神のみぞ知るのだが。

 

先月、丁度一年程前から出席させて貰っている読書会「やつはみ喫茶読書会」へと参加してきた。課題本はフィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか』(浅倉久志訳、ハヤカワSF文庫)。

1982年に「ブレードランナー」として映画化もしており、その続編が近日公開なのだという。その為か、NHKBSプレミアムで「ファイナル・カット」が放送されたので、タイミング良く観る機会を得た。その上での参加である。

ディックとは自分にとって、「俺、本格ミステリのファンだけれども、ディクスンの『ユダの窓』って、まだ読んだことないんだ実は」と云った感じの作家だ。よって、課題本の『アンドロ羊』を読んだのもかなり最近のことである。

ディック作品自体は、近年でも散発的にハリウッドで映画化がされている。それに伴って版権を持つ早川書房等が新装版や新たな短編集を編んで刊行していた。

そんな中、 数年前に『ヴァリス』の新訳が出ると(自分の周辺で一部)話題になった。

ヴァリス』とは、著者がドラッグだかアルコホオルだか、新興宗教に嵌っている状態で書いた、一行読んでも三行戻らないと判らないと曰く付きの作品で、これは読まねばと感じたものだ。

偶々当時参加していた別な読書会で次回の課題本候補に挙がったが、結局違うものになったことも懐かしい。

ヴァリス』に次いで、それに続く『ディヴァイン・インヴェイジョン』等が新訳で出版され、S-Fマガジンではディック総選挙なる人気投票も行われた。亡くなって尚、この国でもディックの人気、そしてリーダビリティは健在だと云うことだろう。

 

『アンドロ羊』では、純粋な生物であれ、電気仕掛けの動物であれ、そして最新型のアンドロイドであれ、それ等に対する感情移入ということがメイン・テーマの一つとなっている。

しかし、本格ミステリの探偵役に顕著だが、感情に乏しいキャラクターというのは、余り珍しものではなくなってしまった感がある。「感情移入」がある種の人間性を、また過言するならば人間の優位性を担保すると云うのは、感情の乏しいそうしたキャラクターの氾濫で、特別なもののようには感じられなかった。

では、何処に自分は注目したか。

それは、後半でアンドロイド達によって贋物だと暴かれた宗教「マーサー教」である。

どうしても『ヴァリス』に引っ張られてしまう所為なのだろう。「感情移入」や所謂神秘体験とは、限りなく個人的な体験である。そして、 それ等個人的な体験を、共有させる。若しくは共同幻想化させるのが宗教である。主人公のデッカードもまた、マーサーの苦行を追体験する。それが幻想なのか現実なのかは不明の儘だが、そうした本来他者と共有出来ない個人的な体験を共有すること——それが「感情移入」のその先であり、宗教の機能だ。

アンドロイドは「感情移入」しない。電子回路に不調がない限り神秘体験もないし、あったとしても神秘体験だとは捉えないであろう。だが感情はある。寂しさを感じもする。だが、孤独は感じるのだろうか。

人間はそれを感じる。そして孤独には耐えられない場合もある。それを解消する方法が「感情移入」であり宗教だ。

孤独と神秘を感じてしまう人間とそうでないアンドロイド、どちが優位というものでは無論、ない。感情を持つ限りなく人間に近いアンドロドと対比することで、人間の孤独さとその癒しとしての「感情移入」そして宗教の片鱗を描いたことで、『アンドロ羊』は、『ヴァリス』等の以後諸作へと続くテーマを内包しているのではないかと思われる。

 

夏は、しかしあっと云う間だ。自分もまた皆さんと同じように面白い本を沢山読み、出来る限り有能な人間であるようにいたいものだ。

 

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奨学金問題と謎の独立国家

気が付いたら、7月だ。梅雨も空梅雨なのか、余り雨が降った印象がない。若しかしたら、台風や豪雨等でこれからかも知れない。

中国、九州地方で被災された方々には、お見舞い申し上げます。

 

最近、ノンフィクションを二冊読んだ/読んでいる。

一冊は、文春新書『ブラック奨学金』。著者は、ブラック企業やブラックバイトと云った、若者の働き方に関わる問題に取材し、問題提起している本を数冊出している。また、そうした支援の為のNPOも主催している人だ。

本書では、現在の日本学生支援機構の苛烈な取り立ての実態と、そもそも多額の奨学金=借金を抱え込んでしまう過程が、具体的なケース別に紹介され、それが如何に問題であるかを示している。

また、海外の 奨学金制度と比較しながら、日本の奨学金制度がある種のエリートすらも潰しかねないものとして警鐘を鳴らしている。

個人的に驚いたのは、仮令名義人が自己破産等の債務整理をしても、払えなかった分は連帯保証人(多くは保護者)や保証人に請求が行ってしまうとう事態だ。これでは、親族皆自己破産という悲惨な状況が現実味を帯びてくる。

また、中には配偶者から家庭内暴力を被って、シェルターに避難している先にまで請求が来たという場合も紹介されていた。

減額請求や減免請求等の制度も使いづらく、返済人当人の状況すら考慮に入れられない場合の多い苛烈な取り立て。そして債務整理によっても保証人に伸し掛かる債務は、只でさえ、貧困化が進んでいる現在、余りにも酷である。無論その裏には、債務回収率を上げることで、格付を上位にしようとする支援機構の思惑もあるのだが……。

奨学金の現実を知ることで、この世の中の孕む問題がそこから見えて来ると共に、現に返済に苦しんでいる人には、具体的な手段を講じる為のマニュアルにもなる一冊である。

本書「あとがき」で、「(……)シビアに現状を見定め、最適な制度利用をし、それでもなお降りかかる問題への対処を準備する……そうしたことが必須のスキルとなっている。嫌な時代であるが、それが現実だ」と現況を評している。

感情的な部分もあるが、制度はあっても誰も教えてはくれない。求めるだけでは授けられはしない。例えば介護等もそうだ。

当事者としても、また世の中を巨視的に見る為の窓の一つとしても、参考になる一冊である。

 

 

もう一冊は、集英社文庫で文庫化した『謎の独立国家ソマリランド』だ。

これは「本の雑誌社」から数年前に出た時から話題となり、何時かは読みたいと思っていた。

こうした頗る付きに面白いノンフィクションには時々出会う。新潮文庫の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』等がそうだ。

まァ、本はフィクションとノンフィクションに大別出来るのだから、ノンフィクションが圧倒的に多いのだから、玉がごろごろしていてもおかしくはない。

リアル北斗の拳と評されるアフリカのソマリア、その中にあって、ソマリランドという事象独立国家は武装衝突も戦闘も起きていない、ラピュタのような理想郷だと云う。その実態を確かめに、著者は友人と手を尽くし、現地へと出発する。

ハイパーインフレであるものの、自国の通貨をも発行し、市場には果物が溢れるソマリランド。しかし、近海には海賊すらも跋扈すると云う噂もあるかの「国家」とは如何なる場所なのか……。

著者の語り口の面白さもあり、興味の尽きない一冊だ。

 

今回は実に簡単で表面的な感想で恐縮だが——と云っても何時も大したこと書いていないが——本のことについて書くと、何だかこのブログの本来性が発揮されているような気がする。飽くまでも気がするだけだし、当ブログの本来性とは何ぞやと書いていても思うのだが……。

暑くなってきますが、お身体には気を付けて、この夏も息を吸うように読書をして下さい。後、スティーヴン・キングの『セル』が映像化していたらしくて、一寸ビビったよ。

 

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ウエスタンとノスタルジー

入梅の季節だが、一向に雨が降る気配もない。

最近は、と云うか以前からそうだったが、頭の 箍が外れているのか何なのか、矢鱈と本を買う。しかも、帰郷してこの方、ネットの便利さを知ってしかも新刊情報とか届くので、購入は非常にシームレスだ。まぢやばい……。

 

別段映画も観ないし(そういえば、「ゴースト・イン・ザ・シェル」すら 観なかった)、本も、何時も読んでいるものが、注文通りに届くくらいだ。最近、スティーヴン・キングの〈ダークタワー〉パート4、『魔道師と水晶球』が届いた。新潮文庫で持っていたが、引っ越しの時に売ってしまったので、丁度角川から出ているのを再購入しているものだ。本としては新刊な訳だから再購入と云うのもおかしいが。

しかし、キングにしろ、文庫化して毎月出ている荒木飛呂彦の『スティール・ボール・ラン』にしろ、最早読んでいる動機は、それが面白かったからと同時に、ノスタルジーである面が強い。それは古き良きアメリカであり、しかも作者が創作した架空のアメリカなのだ。それが〈中間世界〉であり、また特異点を超えて一巡した宇宙のアメリカであることがその証左でさえあるように思われる。

それに、ウエスタンに挑み、今更こんなに面白く創造出来るのは、もうキングか荒木くらいしかいないのだろう。ウエスタンであることが既にノスタルジーなのである。

 

と、取り留めもなく書いてみた。そんな分量でもない。最近、きちんとした構成の文章が書けなくなっている気がする。それは言語を司る脳の器官が衰えたのか、単に昔からそうだったことに気づいたからなのかよく判らない。若しかしたら、リハビリでどうにかなるのかも知れないが、そんなリハビリの産物を読まされる親愛なる読者は堪ったものではないだろう。その点は書き手として猛省したい。

 

とまれ、それこそキングも折に触れて云っているが、偉大なる諸氏よ、よき本を読み、お互い出来る限り良い人間であるようにしたいものだ。次にまた会う機会に恵まれようものなら、それこそ信じてもいない神の采配なのだろう。

 

 

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皐月も終わる訳だが……。

気が付けばもう皐月も終わりだ。

今月は黄金週間もあり、人の誘いもあって、東京へSFセミナーに参加したりと、書くべきこと、書こうと思うことは滅法あった訳だが、どうも上旬からこっち、日頃の行いが祟ってか、風邪気味で、身体の懈さは抜けても、終いには副鼻腔炎を起こしてしまう始末だった。

また、消防団の活動がいよいよ本格化し、それに反比例するように、自分の心理的バラメイターはダウンしてゆくばかりで、まァ、日々を何とか頬被りで遣り過ごずのが精一杯と云った所だ。

その為か、今月は映画も一本も観ていない。テッド・チャン原作の「メッセージ」等、観たい映画にも事欠かない筈なのだが、日常に埋没し、詰まらぬ噂話やら空談に耽っている、所謂ダス=マンに成り下がっている気がする。

怠惰さこそが、自分の人生の醍醐味ではあるのだけれども……。

 

そんなこんなで、しかし本ばかりは通販で買ってはいるものの、気軽に読めそうな新書が多い。衣替えをした途端、梅雨入りで気温も下がりそうな予報であるが、体調だけは充分に気をつけたい。未だ習慣化出来ていないブログでさえ、書く体力と気力を失くしてしまう程なのだから。

 

世間も世界も生活も、時を経るご毎にキナ臭く、一見碌でもない方へしか向いていない気がするが、多分事実そうなのだろう。それに失望も絶望もすることなく、また非現実的に楽観するでもなく、淡々と、事務的に生活を送ることが出来たら、自分としてはなんと素敵なことか。

気分の昂揚は、読書と、映画と、そうした藝術と云う非日常で充分だ。

あ……読書はもう食事と同レヴェルで日常なのだが。

 

季節の変わり目なので、皆さんも体調にはお気をつけ下さい。

 

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