奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

恐るべし山﨑努ーー映画「日本のいちばん長い日」 恐るべし山﨑努

今日は映画「日本のいちばん長い日」を観た。

原作本ではピロローグがポツダム宣言発表からだが、映画では鈴木内閣の組閣から始まる。帝国日本は既に凡ゆる戦争資源を消費尽くし、後はどう終わらせるかという、未だ明言出来ないが、本質的に当時の政治家の心底にある問題を抱えていた。その問題を解決する為に組閣されたのが、鈴木貫太郎を総理大臣とする鈴木内閣だった。

その鈴木を名優・山﨑努が演じる。

山﨑と云えば、例えば野村芳太郎監督の松竹版「八つ墓村」における田治見要蔵や、「必殺」シリーズの念仏の鉄役等が印象的だ。まさに異質の名優と云って良い。

例えば、他のキャストである阿南陸相役の役所広司や、迫水書記長官役の堤真一等も、決して芝居に劣るものではない。裕仁役の木本雅弘も当然そうである。

しかし、山﨑は最早あれが芝居かーー映画なのだから当たり前に芝居なのだがーーと思わせる程に自然なのだ。恥ずかしながら、近現代史に疎い筆者は、鈴木の客観的履歴やその業績をよくは知らない。況してやその風貌や為人などは、写真くらいで風貌は判るものの、性格的なことは同時代人ではないし、映像も残っていないので知る由もない。

だが、山﨑の鈴木は、恰もあれが鈴木当人なのではーーと思ってしまう程である。

嵌まっているというのも何か違う。あれが山﨑の練り上げた芝居なのだろう。しかし、不思議とそれが、恐らくあるであろうアドリブ的な要素も加えて、一個の独立した人格としてスクリーンに出現しているのだ。幾つもの異質ーー異形とさえ云えるかも知れないーーな役柄に挑んだ山﨑ならではの仕事なのだろう。阿南や裕仁、畑中等、素が群像的なドキュメント故、中心視点となる人物は複数いたが、山﨑=鈴木が自分の中では一等冴え渡っていた。

それにしても、ポツダム宣言受諾を破棄させて、遂には本土決戦に持ち込む為にクーデターを謀ると云う青年将校の精神は、俄には同調どころか、その構造すらも理解し難い。帝国陸軍の軍人教育の影響なのか、内地におり、非戦闘国民よりも恵まれた生活状況にあって、外地での地獄のような戦闘を知らぬ彼等が、やり場のない感情と精神論で総玉砕も辞さないと云う、後世から見たら最も愚かな選択をしようとしていたことに対しては、甚だ怪訝な気持になる。それが戦争の困難さであり、また狂気なのであろうか。

ドキュメントを映画化する際は、単なる客観的記述のみでなく、多少の人間ドラマ的演出も必要であり、殊に映画はそこに感情を揺さぶる何かが求められるが、安易な《感動》に辛うじて走っていない部分も評価して良いのではないか。庶民から見た戦争と、政治エスタブリッシュメントからの戦争ーー小さな物語と大きな物語の両者が揃って、歴史は理解が深まる。

 

岡本喜八監督版もあります。 SPONSORED LINK