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奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

人の情念と時代の怒濤ーー山田風太郎『魔群の通過』感想

今日は晴れて、昼間はじっとしていたら何だか暑かった。

それでも立秋も過ぎ、9月に這入って、もう直ぐ彼岸だ。ぐだぐだとしていたら、その内秋になり、聞こえている蝉の声も気がついたら聞こえなくなってしまっているのだろう。

暫く前に、『日本のいちばん長い日』に続いて、山田風太郎の『魔群の通過』(ちくま文庫)を読了した。

幕末、佐幕か攘夷かに割れた水戸藩の内的混乱と、血で血を洗う復讐劇へと到った、水戸天狗党の長征、そしてその顛末について、名匠・山田風太郎が、独自の時代小説として描く。

山風の小説としては、伝奇的要素が少なく、史実に比較的忠実と云う面でも珍しい。

しかし、御存知の方も多いと思うが、山風は史実を充分加味した上で、奇想天外な物語に仕立てているものが殆どだが。

確かに、水戸天狗党の絶望的とも思えるこの強行軍に、超絶の忍法等は絡んでこない。不老長寿の人物がいたり、死んだ筈の者が実は生きていたと云うこともない。

だが、その本編に流れる無残さ悲惨さと、 水戸藩ばかりか、徳川権勢下、そして明治の世に亙る怒濤のような混沌的勢い。そして最後には、そうした大局的な情勢が、個人の情念にまで収斂し、最後には文字通り、そして誰もいなくなると云う、山風の作品に付きものの蕭条たるラストにおいては、まさに唸るしかない。

水戸藩と、佐幕攘夷を巡る幕末の世情が、遂には個人の情念へと収斂してゆく様は、時代は少し下るが、所謂明治ものの第一作に位置付けられる『警視庁草紙』とは、真逆な構成だ。『警視庁草紙』は主人公達の個人的な行動が、ラストにおいて時代の波に全て流されてしまう(或いは、主人公自らがその流れに身を投じる)様が描かれる。

そして、そのどちらも、怒濤のように個人を押し流すものとは、詰まりは戦争なのだ。

佐幕と攘夷の対立による党派争い、西南戦争ーー血で血を洗う内乱は、両者に共通している。しかも、『魔群の通過』は、最後天狗党の残党による水戸藩内の諸生派への報復となり、その親族に至るまで虐殺の酸鼻を極めるのである。これぞ、正に、最終章の章題ともなっている「討つも又討たるるも又」の一言が端的に表していると云って良い。

爽快感とは程遠く、悲壮感とも云えない、惨状の果ての憾み、そしてそれを見つめる作者と、語り手の語られざる心情こそ、余韻となって、イデオロギーと個人的情念の惹き起こす人間の業をしみじみと読者に体感させる、山風にしか書き得ない(山風の作品はどれもそうなのだが)、逸品である。

作者の描く人の思い、行い、そして業を読む度、これも名作『戦中派不戦日記』の前書きの一節を思い出す。

「人は変わらない。人のすることも、また」

 

 

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