奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

谷崎「疎開日記」を読む

まとまった時間を取ろうと思えば取れるのがば、電車通勤でなくなって、本を読む時間は、比較的減少して久しい。

仕事が忙しいかと云えば、この御時世、そうであるに越したことはないのやも知れないが、今の所そうでもなく、家事もそうそう熟す必要もまたない。

しかし、まァ、読書とは呼吸と同等の行為でもあるので、気が付いたら、暇さえあれば何某か読んではいるのだが、まとまりのあるものを一冊読了すると云うことが、最近は少ない。

増えてゆく数冊を、ランダムにつまみ読みするくらいだ。

以前もそうだったが、そこで打って付けなのが、日記である。

嘗ても、「ゴンクールの日記」や、三島由紀夫『裸体と衣裳』等、日記を拾い読みしていた時期があった。現在は、谷崎潤一郎の「疎開日記」(『月と狂言師』中公文庫収録)をつらつらと呼んでいる。

先頃、関西への恋しさから『細雪』を読み、それが書かれた時期の、作家の生活を知りたくなったという理由も併せてある。

疎開日記」は、その名の通り、戦時中の作家の生活の記録だ。空襲で家人達を避難させた後、自分は『細雪』の続きを書いた等、創作の中心は件の進行中の作品である。

例えば、山田風太郎の『戦中派不戦日記』と較べて、戦時下の壮絶さというものは、山田日記程は感じて来ない。寧ろ、物質面、生活面では中々戦時下にあって、結構恵まれているのでは——と云う印象を受ける。実際恵まれていた方なのだろうし、それ故、泰然とまた淡々と状況を書いている。しかし一方、段々と日常生活が不自由になり、統制や禁止が増え、果ては進行中の作品の公開が、私家版であっても軍部の意向で発禁になり、空には、B29の編隊が飛んでいる——そうした否応ない戦時の状況下で、独り創作に打ち込むことは、幸運にも衣食住が何とかなっていても、並大抵のことではあるまい。また、昭和一桁の一般には暗い印象を持たれる時代を舞台に、美しく、且つ俗っぽいまだ平和な頃の、在日中の外国人とさえ 平気で交流できた頃の日本の 上流家庭の一風景を描くことが、作家にとってのある種のレジスタンスであったこは、論を待たないだろう。

しかし、そうして戦争を持ち出さなくとも、『細雪』は、意想外に理屈っぽい文章でありながら、時勢と伝統、聖と俗、情感と情緒を兼ね備えた豊かな傑作である。

疎開日記」は昭和20年8月15日、敗戦の日の玉音放送をラジオで聞いた日付で終わっている。しかしラジオの調子が悪く、昼12時の放送では、米英から無条件降伏の提案があったことが僅かに聞き取れたのみ。夜になって、奥さんから日本が無条件降伏した知らせだったと聞く。奥さんは泣いたそうだが、その際作家の心境は特に書かれていない。

 

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