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奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

言葉についての個人的問題——話し言葉編

雑記

丸善ジュンク堂ネットストアの延長で、hontoを利用している。紙の本と電子書籍のサーヴィス・フォームだが、自分は専ら紙の本を注文するのに使っている。電子書籍は、iPhoneで一時期利用したことがあるが、最近は紙の本へと回帰してしまった。iPhoneだとデヴァイスとしてはちょっと小さいのだろうか。かと云って、KindleiPadを用立てる目処が(金銭的に)立たない。

不景気なことは、今に始まったことではないが、今月はしかし本を買い過ぎた。しかも、嘗て持っていて、数年前引越しをした際に手放してしまったものが多い。今日届いたのは、アメリカでもドラマ化され、最近エミー賞まで受賞したほ「ゲーム・オブ・スローン」(邦題)の原作である「氷と炎の歌」第3部『剣嵐の大地』上中下の三巻だ。

何故か第四部『乱鴉の饗宴』は手許に置いておいたのだが、一部、二部、そして今回再購入した三部は里子に出してしまったので、しかも三部は未読だったりしたので、今回改めて購入した。ファンタジー熱が高まったか……。

 

それにしても、最近幾ら本を読んでも、相手に何事かを伝えるということは、自分にとって永遠の課題だ。それはコミュニケーションとも云えるかも知れない。酷い云い訳を承知で申せば、性格的に他者と意思疎通を図ろうとすることは苦手だった。苦手というより、自分個人がその必要性を本能的に感じられていないかも知れない。

かの伝説的編集者・花森安治は、読者が判り易いように工夫して書けと云ったそうだ。そして、そのコツは、話すように書くと云うことらしい。だが、自分自身にとって、書くことと話すことは、別な行為——のような気がする。書く時と話す時では、別な脳の部分を使っている気がしてならない。明治 期、新たな日本語を創り、日本人の知的向上に貢献した言文一致運動にはそうした意味でも頭が上がらないが、書くにも話すにも、自分にとっては意識的な訓練が必要だ。兎角、不特定多数の未知の他者を想定し、その方々に「判り易く」アウトプットする、就中「書く」ことによって伝達することにおいては。

言葉を遣う、もとい司るのは、或る種のセンスでありインスピレイションである。例えば営業職で、相手との何気ない会話から、セールス・パーソンにとってお客から必要な情報を引き出すことは、多少は経験で補えるかも知れないが、自分の仕事と、お客たる相手に対する興味に由来する、その場その場のライヴ的オーラル・パフォーマンスである。

しかし或る人々は、自分も含めて、自身のことを語り勝ちだ。そして同時に、他者に関心が薄かったりする。賢人は、譬え自己の性格がそうした独り善がりなものであったとしても、他者と、延いては社会と折り合いを付け、上手に仕事でもプライヴェートでも結果を出すのだろう。それが経験を積んだ分別ざかりと云うものだ。

ところが他方、自身の言語伝達能力、即ち、自分の発話を判り易く相手に伝え、それを用いた会話から自分の意図する相手の情報や感情を汲み取ることに不得手な、本性的内向型の人間もいる。それは若しかしたら、単に実生活や仕事を行うだけでなく、凡そ表現者として不適格なのではなかろうか。

そうした内省と打開の願いを籠めて、このブログはあるのだが。

三十代は嘗て分別ざかりと呼ばれた。その年齢に差し掛かって、自分は大して経験やインスピレイションに裏打ちされた分別を持つに到っていない。そこには、言語の問題が横たわっているような気がしている。自分の口語は、社会ではそう役に立たないという実感が、ここ数年頻りとするのだ。言語による社会との和解、若しくは格闘が、 自分の「分別ざかり」の年代の主題となるような気がしてならない。

 

今回は、珍しく自分のそうポジティヴはと云えない、しかも極く極く個人的な話題を書いた。相変わらず、読者に伝わり易いとは云い難いが、今回は問題提起編その1だ。

次は、書き言葉に関して、自分の思っている、感じている、諸問題を書きたいと思う。少しは読者に届くよう、また、有益な話題になるよう余り気張らずに、しかし微力を尽くしたい。

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