奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

自ら傷を受けること——「映画プリキュア」所感

週は明けて、みんな大好き月曜日だが、昨日観た「映画魔法つかいプリキュア!」の熱が未だ冷めやらぬ。

よくよくネットを閲覧していたら、嘗て住んでいた洛中のT-joy京都では、斯様な素敵イヴェントがあったそうな。「映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!」公開記念 あなたが決める!プリキュア映画ベストセレクション+最新作ミラクル上映会 in T・ジョイ京都 う、羨ましくなんかないもんね……

 

そんな素敵イヴェントに敗けない(?)ように、自分も持てる機器を導入して、三作を一気観しようと思ったが、そう云えば「映画ハートキャッチプリキュア」のソフトは持っていなかった。残念無念。こう云う時はシームレスにネット購入へと移行するものだ。

 

「ハートキャッチ」、「ドキドキ」、そして「ハピネスチャージ」は、どれもドラマ性が際立っていることは勿論、映画ならではの挑戦にも意欲的だ。それは、プリキュアがその身を呈して、護る為に傷つくシーンと云う形で描かれる。 ブロッサムが、ルー・ガルーとなったオリヴィエの攻撃を受け止めるのも、ラブリーがドール王国の真実を知って傷つきながら落ち込むのも、そして一見過激に見えるハートの流血も、皆自ら壁を作らず、相手を受け入れると云うことの一端である。 傷つくことは、誰しも痛く、厭なものだ。しかし、相手を理解し、共感しよう、更には助けになろうとする思いの結果として、伝説の戦士達は自ら身を呈して傷つくことを厭わない。単に戦うだけではない、それが伝説の戦士たる所以だから。

 

無論、そこで一方、初期作品の頃に敵対していた、許されざる絶対悪をどう描くかは、また問題になってくる。近年のシリーズは、どうやらその方へと、敵の造形は舵を切っているようだ。

 

自分から痛みを堪え、傷を受け入れることで、敵である相手に届く——この三作ばかりでないが、そのテーマがより際立つのが、今回T・ジョイ京都のイヴェントにて選ばれた三作に共通するテーマの一つではあると思われる。 人は、必要な苦難こそ選べれども、他者の為に傷つくことは選ばないし、選べる程強くもなければ利他的でもない。そして、その行為にどれだけ意味か図らなければ動くことをしない。だが、自己防衛としてのそうした無為を、非難することは出来ない。それは誰しも共通する事柄であり、心持ちであるからだ。 だからこそ、せめてフィクションの中で、譬えそれが単純化された形であったとしても、理想化された物語を観ることで我々はカタルシスを得ることが出来る。 そして、本命の視聴者である子供達は、将来実生活を重ねる内に、日常に埋没し、忘れていってしまっても、一度本能的に印象に残った、原初的なフィクションのイメージやテーマは、契機すらあれば思い出す。思い出さないまでも、それは根底的な人格形成に繋がる。

 

正しさとは、相対的なものだ。時と立場が変われば一変する。それでも、人は基準なしには生きられない。その大切な基準の要素となるものが、フィクションの力だと信じたい。

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