奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

自由への渇望と超越者への反逆——ハーラン・エリスン雑感

霜月から何時の間にか師走に這入ったが、色々やることはあるものの、中々手が出せていない、若しくは進捗自体が思わしくないこの頃である。

 

そんな愚痴は良いとして、最近は近隣の市で開かれた読書会「やつはみ喫茶読書会」へ参加してきた。この読書会への参加は二度目だ。初めて参加した前々回はエラリー・クイーン『九尾の猫』、欠席した『ノックス・マシン』を挟んで、今回はハーラン・エリスン『死の鳥』(早川文庫)である。

エリスンの『死の鳥』は、以前の記事でも書いたが、待望だった。てっきり、国書刊行会が「未来の文学」のラインナップの一冊として予告していた、SF以外の作品集『愛なんてセックスの綴り間違い』(仮題)の方が先に出いるかと思っていたくらいだ。

『死の鳥』は、主に60年代終盤から70年代に掛けて、日本で翻訳されながらも、単行本に纏まっていなかったものを集めている 態である。どれも、エリスンのエッジの利いた作品が多い。

かなり昔の学生の頃『世界の中心で愛を叫んだ獣 』を読んだうろ覚えの記憶を引っ張りだしてみれば、いささか作品世界のスケールの壮大さには欠けるような気がするものの、幾つか目立ったテーマのようなものが、各作品に散見される。

それは、 キリスト教の神——所謂超越者に対する反逆であり、また、絶望的とは判っていても、自由への飽くなき希求である。渇望とすら云っても良い。或いは、運命か……。

自由を求めることは、他者によって築かれた檻、簡単に云えば、他者によって引かれた線の向こう側へ移行することを意味する。線を引く他者、檻に閉じ込める他者とは、無論超越者のことであり、主人公達は、その彼方への脱出を図ろうとする。

それは詰まり、一方で、彼等彼女等がそれを望んでいるにしろ、そうでないにしろ、線を超えて、超越者の位置に行こうとする行為だ。自らが、超越者——神の側へと立とうとすることを、幾つかの諸作品はテーマにしているように思われる。

しかしまた、SF——それがサイエンス・フィクションと訳されようとも、スペキュラティヴ・フィクションと訳されようとも——とは、常にそうしたテーマを意識するしないに係わらず具えたものではなかったか。

ある種の化学論理をそのルールに則って過激に突き詰めた結果、彼等彼女等は何時しかその線を超えている。それは超越者を想定した上でのその否定である。それを、科学と論理と、そして想像力で以て、小説という表現形式を借りて行うのが、多分自分思い付いたSFだ。

想像力は無限大である。そして、被造物でありながら想像力を持つ我々は、フィクションの力の元に、超越者の引いた線を超え、神の側に 立つ——自由と超越者への反逆をテーマにしたエリスンの諸作品は、その蛮勇のスマートな表れである。

 

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