奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

告別式の午後

早速日記めいたものを書き続けようとしたが、一日で挫折した。明日仕事だと思うと早々に寝てしまうのは、健康的なのか、意識的に健康に気を遣わなければいけない状態になってしまったからなのか……。

昨日14日の日曜日は、仕事上面識のあった人の告別式があったので尚香に行く。諸々の意味で年長者との付き合いが多い為か、礼服に袖を通し、黒ネクタイを締める機会も案外少ないものではない。この場を借りて故人のご冥福をお祈りします。

 

帰宅後、先月から入会した読書会にzoomにて参加。ミステリの読書会は本当に久しぶりだ。社会人になってSFを中心にした読書会には参加した/しているが、一方ミステリは学生時代ぶりではないだろうか。

課題図書は京極夏彦巷説百物語』(角川書店)。

これもまた懐かしい課題本だ。京極作品に関して云々すると時間が尽きない。次回は年末ということもあり、今年読んだ本のベストを紹介しようという話になる。そう云われると、実はミステリを殆ど読んでいないことに気づく。まだSFの方が、新訳や新装版も含め読んでいほうだ。一体何を紹介すれば良いのだろう。去年末に刊行された陸秋槎『文学少女対数学少女』でも挙げておこうかと本気で考える。嘗て、「初期クイーン論」という論文があった。それは探偵小説の推理に、柄谷行人から孫引きしたゲーデル不完全性定理を援用した法月綸太郎の論文で、名探偵が事件の真相をどこまで担保出来るのかという、所謂「後期クイーン問題」と呼ばれる議論を呼び起こした。

しかし、気がつけば2010年代に入って、そうした本格ミステリを取り巻く議論はいつの間にやら雲散霧消し、誰も語らなくなってしまったように思われる。

陸の著作は、ゲーデルに代表される数理論理学を実際のミステリの推理に導入し、時を超えて法月の議論を実作に応用した点で注目すべきだ。もちろん、作者は中国人であるし、中国で嘗ての新本格の諸作品が翻訳紹介されて、近年になって触れたというタイミングもあるだろう。だが、日本では忘れ去られたかに思われる議論やテーマが、時間を超え空間を超え、海外の作家によって再起されようとしているのは重要なことではあるまいか。

単に「百合ミステリ」として売り出すだけでは惜しい作品である。

 

ところで、それ一さつだけでは、余り格好がつきそうにない。一応読書会自体の課題図書も決められており、『アデスタを吹く冷たい風』だ。電子書籍もダウンロードもしていないものがどんどん貯まっていく。そう云えば、販売前から販促的に話題になっていた今年のクリスティ賞も予約注文してしまった。色々日常の諸事にかまけていないで、沢山本を読めという何ものかの思し召しかも知れない。

 

本日初参加で、最近読んだ本を紹介しようとして、手許にあった小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』を挙げたのは、ちょっと場違いであっと反省。しかし、当該著書自体は、各文学作品から、家や家族からの自立が声高に叫ばれる中、見過ごされてきたケア(育児や介護など)に焦点を当てた示唆に富んだ本である。

 

一応ここまでは、昨日の話だった。