奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

仰るのならやれば良い

職場で(と云い出すからには愚痴だ)、上司が、あまり年末が近づいている感じがしないと云った。お住まいの近所はどうだか知らないが、この辺の田舎は、昨今のようにコロナ禍でなくても、こんなものですよと応えると、年末は売るものも多種類あり、掻き入れ時で、電話を掛けて予約を取ったり、来客にはもっと積極的に声掛けして商品をアピールしたものだと云う。昨今の状況や弊社の方針等が諸々重なり、そうした光景は今ではあまり見られないのは確かだ。だが、別段それらが禁止されている訳ではない。管理職なのだし、部下に手本を示す意味でもどんどん率先してやったら良いのではと思った。勿論口にはしなかったが。

そんな職場を後にする頃には、霜月に相応しくもう真っ暗である。

今週は確か七五三だ。

そして来週は勤労感謝の日で、月が明ければもう師走。先月出雲で一年の英気を養ってきたと思われる神さん達にとっても掻き入れ時ではないか。

福を呼び込むように頑張って欲しい。信心が薄い自分が偉そうに云うのもなんだけれども……。

 

19時から飛び飛びにだが配信プラットフォーム・シラスの石田英敬先生のチャンネル「現代思想の教室」を視聴。今回は、ふりかえりと題し、今までの「新記号論講義」を文章にまとめられたものを資料として、時間、それを測り、人間の世界体系を天体の媒介をする時計、時計を構成する歯車、そして歯車で出来ている計算機へとメディアとテクノロジーの発展と意味づけがなされ、脳神経科学を経由して、マラルメの『イジチュール』のメディア記号論的読解へと進んだ。

『イジチュール』の「時間の部屋」のチャプターは、前回も一回レクチュアされたが、その発展的復習と云うこともあり、理解までは至らないものの、より興味を持ち、深く考えることを試みられたように思う。真夜中、柱時計の十二の打刻が、詩の数節と重なり合って、詩の言葉を立ち上がらせる。そして自己が表出する数刹那の間に詩の言葉が先行して出現するのは、エクリチュール、そしてシニフィアンと捉えることだろう。言葉こそが芸術の表象としての記号なのだと、記号論に内在されるべき内容だと強く印象付ける講義だった。

文学だから、脳科学だから、そして哲学だからと云ったトートロジックな意味づけ(それを果たして意味づけと云えるレヴェルなのかは最早心許ないが)ではなく、それぞれのエッジに深く切り込み、時に融合し、時に連結して、新たな時間とメディア、そしてそれらが取り巻く「www–内–存在」としての人間(現存在)を考えること――新記号論講義の醍醐味が垣間見える。

 

シラスの別チャンネルでは、今日配信会で自分がリクエストした本の自著解説をしてくれるようだが、後日視聴しようと思う。

 

某所で注文したドストエフスキー『未成年』1(亀山郁夫やく、光文社古典文庫)が、在庫が確保出来ず発送が遅れると連絡が来た。そんなに昨日発売日だったと思うが、そんなに買われているのか。今年はドストエフスキー生誕200周年なので、関係本は何か読みたいと思っていたが、丁度良いと思って注文してみたが、暫く手に入りそうにない。まあ、一冊で完結するものではないので、急ぐほどでもないのだが。

 

副鼻腔炎の薬が切れるが、耳鼻咽喉科に行っている閑が見つからない。