奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

ミステリの向こう側

昨日19日()は、またまた注文した本が一気に届いた。発売日に合わせて幾つも注文しておくと、毎日波状攻撃的に届くので嬉しいが、家人は呆れている様子。

現金後払いにしてあるので、結構な出費になったりする。

とは云え、計画通りに進まないのもまた読書だ。

 

以前も書いたが、今年はドストエフスキー生誕200年らしい。それに合わせてなのか、光文社古典新訳文庫にて亀山郁夫訳の『未成年』第一巻が出た。完結すれば亀山訳の五大長編が揃うことになる。なんという壮観、そしてなんという偉業だろう。

『未成年』、は確か新潮文庫で工藤精一郎訳を読んで以来だ。ドストエフスキーは自分の世代は大抵新潮文庫で読んでいる。全集なども、身長のものが古本屋で今でも買えたりするのではなかろうか。『作家の日記』とかもそれで読んだ。後、河出書房社(当時)のドストエフスキイ全集も昔某所のブックオフで見かけたことがあった。今思い出したが、『白痴』は2000年代に河出文庫から出た望月哲男訳で読んでいた気がする。その後、新潮文庫木村浩訳も買ったが。

話が『白痴』に逸れるが、云うまでもなく『白痴』は素晴らしい小説だ。そして極めて挑戦的な小説でもある。真に美しい人、つまりキリストを当時のロシア(19世紀のロシア帝国)に甦らせるというテーマを掲げているのだから。レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵として、純粋で人々を惹きつけてやまない――特に、強欲と猜疑心に取り憑かれたロゴージンや、幸福恐怖症に罹っているナスターシャ・フィリッポヴナなど、決してその人生が幸福とは云えないような人物達の文字通り精神的な拠り所として、彼ら彼女らに居場所を与えるために現れる。

19世紀ロシアに出現した「キリスト」は、果たしてどんな結末を迎えるのか――。

それは、『カラマーゾフの兄弟』にてイワン・カラマーゾフがアレクセイに話すかの「大審問官」よりも過酷な寓話を、読者に突きつけているように思われるのだが。

 

また、ミステリ作家法月綸太郎の五冊目の評論集『フェアプレイの向こう側 法月綸太郎のミステリー塾 怒濤編』も届く。著者が文庫解説や、雑誌の書評欄に書いたものをまとめたもの。平成と昭和の国内編、そして海外編と三編に分かれており、書題はロス・マクドナルドに関する文章のタイトルから取られている。

中に埴谷雄高をミステリの文脈で論じたものがあった(「屍体」のない事件――『死霊』(埴谷雄高)に関する一考察)。2007年の「群像」に掲載されたもの。思い返せば、当時は埴谷の死後10年と云うことで、全集を出していた講談社が特集を組んでいたのだった。先のドストエフスキーマラルメに影響された埴谷の作風だが、彼が戦時下坂口安吾らと共に犯人当て小説に興じるくらい探偵小説ファンだったことは知られている。そして『死靈』にもまた、探偵小説的意匠、雰囲気が色濃く出ているのは、一読感じられることだ。そして『死靈』が孕む後半の文体の弛緩と、キャラクター小説化、妄念のインフレイションを指摘している箇所は、半世紀かけても未完に終わった探偵小説的形而上小説が、ミステリの到る一つの未来を暗示しているようである。

 

しかしそうした議論も所謂ゼロ年代、2000年代のものだ。作品は沢山生まれ、ジャンルは活況を呈しているのだろう。しかし、そうした法月に始まる意識的なミステリの諸問題を引き継いだ評論の出現を、私は知らない。

 

それと、定期購読している「新聞ダイジェスト」12月号も届いていた。新聞を余り熱心に読まず、世事に疎い自分には、ある世代向けに舵を切った週刊誌よりも面白く読んでいる。