奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

大江健三郎・バースディ

今日は大江健三郎の誕生日だそうだ。最近公に姿を表すこともないが、年齢が年齢だけに仕方がないのだろうか。個人的には、今でも彼の真の意味での「晩年の仕事」を密かに進めていて欲しいと思っているのだが、それは無責任な願いに過ぎないのだろうか。

大江作品を初めて読んだのは、ご多聞に洩れず新潮文庫『死者の奢り・飼育』だ。今でこそ、実質的なデビュー作といえる「奇妙な仕事」の割とよく出来た面白さが判るのだが、当時は初期短編の読みどころと云うか、鑑賞の仕方がピンと来なかった。大江の言葉を借りるのなら、「ジャストミート」していなかったのだろう。

実際大江に嵌まったのは、初長編(実質的には中編といった長さだが)の『芽むしり仔撃ち』だ。そして、全く他人事には思えない作品『われらの時代』に夢中になり(当時深夜営業をしていた「珈琲館」で読んでいた)、或る年のゴールデンウィークの真夜中に読み始めた『個人的な体験』は、文字通り巻を置くに能わざる程の面白さだった。そう、大江の小説は、優れた文学がそうであるように、自分自身の人生と重ねて読むことも出来る以上に、大変面白いのだ。

更にこれもまた常道のように、次に読んだ『万延元年のフットボール』で、不遜で手垢の付いた表現をすれば、現在あり、過去にあった、そして未来にあるであろう全ての文学が紙屑になってしまったかのような衝撃を受ける……。

 

先一昨年くらいに講談社から『大江健三郎全小説』が刊行された。長らく単行本に収録されなかった「政治少年死す」が収録されたことが話題となったが、実は全小説が入っている訳ではないことは周知の事実だ。

また、大江のエッセイには大変面白いものが多い。いつしか真の意味での「大江健三郎全集」の刊行が切望される。

大江はイメージの作家だ。青春も、政治も、カタストロフィも、社会も、そして時代すらも、その鋭く卓越したイメージで捉える。しかも当人は大変勉強家で、恩師である渡辺一夫の薫陶を引き継ぎ、テーマを決めてそれに関する本を網羅的に読み込む。そして作品に有機的に落とし込む。そうした大江研究も数多いだろう。

我々は大江になることは出来ないし、またその必要もない。それは当然だ。しかし大江ほどの卓越した繊細なイメージを持つことはなくとも、彼が行ってきた勤勉さに学ぶことは出来る。時代をそのイメージで捉え、まだ勃発してすらいない事象を先んじて描き出した豊饒な大江作品を、先ずは「勤勉に」読み始めることから始めることは可能だ。