奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

期待をしなければ失望もない

今日は朝から町の消防団の辞令交付式と同時に春の作業だった。

今年度から班長ということで、セレモニーに参加した。年功序列なのでキャリアや能力、貢献度の割に仕事や責任ばかり増えて喜びも面白味もない。田舎に生まれ、田舎で育ち、田舎暮らしをすることは、人にもよるが、そうしたコミュニティの面倒を引き受けていくことだろう。まあ、それは都会やマンション暮らしでも同じような側面があるか。

一部の組織に見られるように、例えば公式の仕事や集まり以外でも、会食(現在がコロナ禍であることは置いておく)をしたりと非公式な活動で、絆(その語源はしがらみや束縛ということらしが)を深める、信頼を築くということはままあることだ。そうしたことに積極的に参加しないと仲間として認められない――という表現が大袈裟なら、ある種の関係が保てないという組織力学はあるのだろう。それが全く無意味だとは思わないが、しかし自分はそれが苦手で以前ある営業会社を辞めた(退職した理由はそれだけではないが)のだなと思い、また一先日そうした非公式な活動をキャンセルした為、何らかの不興を買ったと耳にして非常に不愉快になった。

加えて、在住道府県はコロナ禍で中止になっていた消防団大会を今年は敢行する模様。緊急時の技術を継承することに異論はないが、感染者が減少傾向にすらない状況でそうした行事を敢行することは、本当に住民のことを考えていると言えるのだろうか。こうした憤りにも似た反発心を覚えるのは、裏を返せば公的機関が何かをしてくれると期待していることでもあるだろう。自分もまだまだ甘いものだ。

老齢の家人とも暮らしており、もう直ぐワクチン3回目も接種出来るとはいえ、回避することも叶わずやってくる大波からもっと慎重に自衛してゆくことを心がけ、実践してゆくしかない。それは、自分の人生を少しでもマシな方向へとズラしてゆくことへの訓練にもなるだろう。

 

災害も感染症も、また国や自治体が強要してくる諸々も、更にもっとプライヴェートな問題も、迎え撃ちつつ、受け止めつつ、それでも慎重に続けてゆくことこそ生活なのであるし、また、仕事なのである。そうした素朴で慎ましやかな強靭さを身につけたいものだ。

 

先日からダニエル・クレイグ版007シリーズを観ている。本日は四作目「スペクター」を視聴。前作でボンドの実家が出てきたと思ったら、今度は「家族」が黒幕だった。そこまでボンドの過去に拘らなくてもとは思ったものの、映画自体は中々に面白かった。クレイグ007は、シリアス傾向で、どこか泥臭く地味な部分もあり、そこがストイックでカッコ良かったりする。

残るはクレイグ版では最後になるという「No  Time to Die」。これもコロナ禍で公開が延期になってしまったが、既にソフト化もされ、各配信サイトでも視聴出来る。外出しなくてもレンタル出来るのは便利なことだが、映画はやはり劇場で観たいし、またレンタルヴィデオ屋にいくことで、光景的に映画やドラマってこんなにあるんだと認識する機会が減ることは多分デメリットだ。本屋に行く機会が減ったことと同じである。

 

そういえば、今月は拙誕生日だ。バースデイ・プレゼントに友人が川底で見つけた指輪をくれることになっているのだが、中々寄越さない。催促に行った方が良いだろうか……?