今日は地元の宿場町でお祭りがあった。
昔からの、と云うよりも、町おこし(?)に類するようなものとして最近始まったものだと思う。
宿場町と云っても、現在そうなのではない。遠く参覲交代があった頃、中仙道の一宿場として栄えた場所と云うことである。
峠を越える直前の最後の宿場で、往時は難所を前にした最後の憩いの場だったのだろう。本陣と云うからには、殿様も宿泊したのだろうが、何処が管理しているのかは知らないが、結構維持が大変そうだ。
お祭りは、時代行列がメインだそうだ。
それも、嫁入り行列と、何と水戸天狗党に扮した侍行列の二本立てである。
前者は、まァ判らなくもないが、後者は、正直驚いた。
確かに、ここから直後に、歴史に名高い、苦心惨澹たる天狗党大行進の際、その最も大きな戦闘が起こったのだから、所縁が全くない訳ではなない。松代藩等の佐幕軍と、後方より追ってきている市川・田沼の軍勢との戦いは、天狗党が勝ったにしろ、その後の幾多の極寒期の山越えも含めれば、苦難の一所でしかなかったのかも知れない。
そんな、歴史の混沌と、それに流され、例えるなら波濤の間に揺れる木の葉の如く、あちらこちらへと個人にはどうすることも出来ぬ大きな力に動かされた、総勢千人余りの行列の、慎ましやかな再現を見ながら、実際の所、そうした個人ではどうしようもない、大きな力の中に、現代の我々も存在し、そこで暮らしているのだと思うのもまた発見である。
我々個人は、大きな力の作る大きな歴史=物語に、単に呑まれるだけかも知れない。しかし、それを自覚し、消極的なまでも、自分で考え、行動し、更には大きな歴史=物語の中で自分の個人の物語を限りなく正確な現状認識と想像力を駆使して物語ることこそ、それに対抗し、真に理性的な存在として自己を保つ術ではないか。
歴史は、その様相こそ異なれど、本質は変わらない。そして、人間のやることも、また——。