もう10月も早下旬だ。今月は、薄給にも係わらず、買い喰いはするわ、本は買い過ぎるは、分不相応な買い物をし過ぎた。猛省。
最近になって、漸く「刑事コロンボ」を全て観終えた。残っていたのは、
「死者の身代金」
「もう一つの鍵」
「死の方程式」
「黒のエチュード」
の四編だ。
どれも皆相応に愉しめたが、あからさまな証拠であっても、それを立証として強固なものにする為に、コロンボが労力を掛け、ロジックを詰めるのは流石である。これは、彼が絶対的に犯人を逮捕しなければならない職業としての探偵、詰まりは警察官だからこその緻密さだろう。
同じことが、鮎川哲也の諸編等にも見て取れる。短編等のノン・シリーズものの主人公であっても、警察官が主だ。そして、彼等はその職業上の責務から、単に合理的な推理に到達するだけでなく、ある時は現場に足を運び、自身の推理の合理性を確認し、そして確たる証拠までも揃える。一部の安楽椅子探偵や、素人探偵とはその、物的証拠によって絶対的に容疑者である犯人を断定する所がこだわりであり、面白さである訳だ。
無論、安楽椅子探偵ものや、結末が論理の域を超えてしまったようなものがいけないと云うのではない。「刑事コロンボ」や鮎川作品の面白さは、その証拠の行方によると思われる。
しかし一方、単に証拠固めするだけでなく、個人的にはコロンボが犯人を嵌めるパターンの方がより一層愉しい。犯人しか知り得ない事柄をほのめかしたり、ブラフでボロが出るように仕向けたり、犯人の意図に乗っている振りをして、その裏を掻いたりと云ったものだ。
そうして嵌められ、有無を云わさぬ自白を知らずに行ってしまった犯人は、哀れであり滑稽である。そこに抵抗の意志は最早見られない。今まで散々我等がコロンボ警部に付き纏われ、陰々といじめられ、精神的に疲弊している犯人は、ガクンと顎が外れんばかりの表情をし、遂には無抵抗に投降するしかないのだ。全く、ロス・エンジェルス市警には、酷い警部がいたものである。
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