奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

お詫びと日々

 まずはお詫びを申し上げたい。
 先日開催されたゲンロン総会で頒布した拙小冊子に、誤りがありました。
 読書感想として掲載した「『失われた時を求めて』第三巻(岩波文庫)感想」は、第三巻ではなく、正しくは第二巻の感想でした。訂正してお詫び申し上げます。

 自分が書いた文章がどんなに稚拙であっても、それを粗雑に扱うことは厳に慎むべきだと改めて痛感しました。今後は自分の文章をもっと丁寧に扱い、そして厳格に管理し、必要な時に参照出来るようマインド的にも、システム的にも心がけ、実施してゆきたいと思います。

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 エイプリルフールも過ぎ、卯月も二日目だ。異動先には、仕事内容はそう変わらないとはいえ、まだ慣れない。花粉も飛んでおり、副鼻腔炎も併発していて、鼻で息がしづらい。昨年は気管支炎から喘息まで発症した。年を経るにつれて、春はまことに難儀な季節になってきているようだ。

 身体に不調が出ると、自然と、必然的に自身を向き合わざるを得ない。世に「身体論」と名の付く言説は多いが、自分が身体を感じる、意識するのは、こうして不調がある時、怪我をしたり病気になったりした時だ。スポーツを日常的に行っている人を別にすれば、多くがそうではないだろうか。身体が違和を持つことにより、それを感じ、そして身体と向き合う。身体は自分と完全一体でありながら、しかし最もままならない他者のようなものである。多分そのような旨の「身体論」は既にあるだろう。自分が「身体論」を記すのなら、自身から出発する他ないように思われる。

 それらは、身体が経年劣化するものであると同時に、我々の生命活動を可能にする不随意な機能を多種複雑に具えていることにも起因する。身体の衰えを、遅らせることは出来るかもしれないが、完全に止めることは不可能だ。何故ならそれは、時間を停止させることを意味する。また、消化や脈動といった身体活動を逐一意識的に行っていたら我々は生活が出来ない。一方、ひとたび不具合が生じれば、我々は不調を感じ、生活への不都合さえ到るとなると安易に放置しておくわけにはいかなくなる。消化が出来なければ腹は痛むし、血流がおかしくなれば浮腫みも起き、最悪心臓に異常を抱えているかもしれない。

 健康診断や人間ドッグの結果を見ることは、クレジットカードの請求通知を見ることと同じくらい憂鬱だ。それはどちらも支払わなければならないものがあると判っているから。前者なら現金を、そして後者なら健康を。

 医者へ通うために現金を用意する。その為に銀行口座の残高が眼に入る。そんな二重の憂鬱を我々は味わっている。それが年を取ることであり、生きることであるのだろうか。健康維持が節約だと素朴に思いつつも、自分は今日もマスクをしながら口で呼吸をし、週末病院へ行く費用を捻出するために働く。