奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

出版界に貢献しない読者——最近の読書について

自分は、余り現在の出版界に貢献する善良な読者ではない。

読むものと云えば、既にパブリックドメインと云うか、作者が亡くなって50年経って、版権フリーになっているものが主で、しかも気に入れば、小口が手垢で黒くなる程、繰り返し読んだりする。

面白そうな新刊を探し当て、次々に読破してゆくタイプの読者には、全く頭が上がらない。

今、興味の対象と云うか、諸々諸事情あって——と迂遠に云っても当然全く個人的なことなのだが——読んでいるものと云えば、谷崎と芥川と云う、え、そう云えば喧嘩とかしていましたよね同時代人ですしと思わず吐いてしまいそうな取り合わせだ。

 

自分は谷崎ファンではないが『細雪』ファンだ。嘗て関西に住んでいたが、その動機の一端は、往年に件の小説を読んだからと云っても過言ではない。

去年は彼の大作家が亡くなって50年と聞く。新版の全集も刊行され始めた。また、先日関西に行く機会があったので、長い道中、『細雪』を読んだ。大筋の面白さと云うよりは、情景描写の情緒さよりも寧ろ、結構理屈っぽい文章を意外に感じる。勿論、そこが面白さの一因であるし、谷崎の藝の多様さでもある。関西在住の頃の思慕が蘇ってくるのは、至極個人的な読み方に過ぎるが、読書は、基本的には個人的経験である。

今まで『細雪』以外は関心が薄かったが、これを機に、参考として手を出すのも選択肢かと思う。『台所太平記 』とか。

 

また、芥川も、特に熱心な読者と云う訳ではない。只、ある種の藝術家の書き方の参考として『地獄変』を今読んでいる最中だ。芥川の文章にはリズムがあるので、それが非常に読み易さを感じさせる。それもまた、藝であり才であるのだろう。

『歯車』や『或る阿呆の一生』等が結構気に入りだったりするのは、ちょっと内緒だ。

 

斯様に、青空文庫でも読める・いずれ読めそうになるものばかり読んでいては、出版界に貢献出来ることはないかも知れないが、それはまた別の機会に話したい。その気が此方になればだが……。

 

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皐月の始まり——或いは宣伝

いつの間にか皐月だ。

近くの田圃にも水が引かれたのか、もう蛙の鳴き声が夜になると聞こえる。

別に、聞き慣れていると云うか、単に田舎だと再認識するだけで、特段情緒や時季的な風物だとも感じる訳ではない。盆暗だから仕様がない。

 

昼間は少し外に出ただけで汗を掻くが、夜になると涼しい。風邪も引き易いが、ともすると過ごし易い気候なのかも知れない。桜もいつの間にか緑色になり、山の中ばに点々と煙るように咲いているのも、別に愛でる程の風景でもなかったので、惜しくもないが。

と、野暮で、露悪的な文句から始めたが、こうした抽象的で何が云いたいのか一読判然としない文章だと云うことは、今回の記事に大したテーマがないと云うことだ。

 

三連休も終わり、日常のドメスティックな仕事は、前から計画していた通りに片付いた。家の水回りの掃除もしたし、以前も書いたが五月人形も飾った。後は、今月課税されるであろう自動車税を待つばかりか。自動車と云ったら、足回りも塩カルで錆び始めていそうなので、そこだけでも洗浄しなければならない。明後日以降の予定が一つ出来た。

 

こうして極めて個人的な報告をしていても、読んでいる方々も大して楽しくはなかろうかと思う。書いている方も、まァ個のブログなのだし、始めたばかりでスタイルも何も確立しておらず、SEOとか、アクセス率とか、況してや気休めに載せているアフィリエイトでどうこうと云う意識も希薄だ。

今は、取り敢えず続けてゆくが、そして、一部でも良いので、大したテーマ等なくとも只読んで面白いと感じて下さる方がいるような文章を書く為の修練の場だと位置付けている。

そんな習作を世界に公開するのもどうかと思うが、読まれているかもと云う客観を意識することが大切なのだろう。

 

文章で思い出したが、別にブログを作り、断片集として小説——と云うか小説みたいな文章、それも短い文章を公開してみようと思ったので、始めてみた。

漠然としたイメージを具体的に、まとまりと意味のある言語にしようとする試みだ。

本当は、以前同人誌等に発表した拙作を載せようとしたが、文章量が多くて、ブログ形式だと見辛いので今は控えている。その内良い方式、フォーマットがあったら、それもしてみる積もりだ。

 

ともあれ、件の断片集「小説の奥津城」を、まだ一編しか投稿していないが、是非合わせてお読み頂ければと思う。 宜しくお願い致します。

——最後は宣伝になっちゃったね……。

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卯月も今日で終わり——あと「スターウォーズ エピソード7」とか

四月も今日で終わりだ。

昨日に較べて風も強くなく、天気も良くて、活動するには結構な気候だった。と云っても、連休だから何処かへ行くとか、何かレジャー的なことをすると云った訳ではない。

家内の一部を掃除し、時季の相応しく五月人形を飾った。特にどうと云うことはいので別段写真等を載せないが、一家揃って余り季節的な行事に参加し、節目、節句を祝おうとする家風ではないが、それでも、雑然とした座敷を少し片付けて、仰々しく飾ったら、それなりに端午の節句というか、それも含めたゴールデンウィークが近い感じがしてきたと云うか、そんな素朴な情緒が出てきた気がする……。

 

とまれ、我ながら精力的に活動した後、近隣(車で約20分)のTSUTAYAへ行ったら、「スターウォーズ エピソード7」が新作で貸し出されていたので、うっかり(?)レンタルしてきた。

随分前からなのだが、映画がソフト化するのも早くなったものだ。半年でソフト化も早いと思ったのに、5箇月程で既にソフト化して店頭に並ぶとは、おそらく昔と収入の形態が変わってきたのだろう。憶測だが。

 

ところで「スターウォーズ」だ。

劇場で一度観たが、その時は最初少し醒めた眼で鑑賞していた。しかし、旧作を彷彿とさせる 画や、特に「新たなる希望」を意識した展開等で、まァ、シリーズファンとしては途中から中々夢中になって観ていた。

そこまで「新たなる希望」を意識しなくてもーーと感じなでもなかったが、何所かでデス・スター的なものが出てくるだろう、とは途中から予想していたが、巨大人工衛生のデス・スターを更に巨大にして、惑星全体を兵器兼基地にしてくるとは。

何でも規模を大きくすれば凄いと云う判り易さが「スターウォーズ」っぽいよね。

しかしながら、それだけの規模の兵器兼基地を建設する費用、資材、その他諸々を、ファースト・オーダーは何処から入手してきているのだろうか。旧共和国時代の分離主義企業のように、スポンサーがいるのだろう。勿論、そもそもの本体は旧帝国の残党なのだろうか、ファースト・オーダーに出資する利害関係者がおらんことには、費用も、人材も、物資も中々調達出来るものではない。

ストーム・トルーパーには、嘗てのクローン兵ばかりでなく、誘拐同然に強制徴兵した普通のヒューマノイドもいるので、若干旧帝国期よりは規模が縮小してはいるのだろうが、その背景や運営体系が気になるものだ。

……と、そんなところにも突っ込み——もとい、想像を巡らせてしまうのが、シリーズの魅力なのであろう。だから、スピンオフ小説や、正史的には新たな映画が始まってしまって、無かったことになっているような(?)、旧三部作のその後を描いた「ニュー・ジェタイ・オーダー」のようなシリーズ小説が生み出されたのだろう。

既に「スターウォーズ」自体が一つのブランドであり、産業であり、今風に云えばコンテンツであり、余り正しくなはいかも知れないが、多くのライターが関わっていると云う点ではシェアード・ワールドのような要素もあるやも知れない。

本編にはここでは特に触れなかったが、またスピンオフ映画や来年には早くもエピソード8が公開されるそうだ。色々とディズニー、ドリームワークスさんはあの手この手で広告宣伝を打ち、話題を作り、我々を楽しませてくれるのだろう。

今作「エピソード7」は、「新たなる希望」を多分に意識し、なぞり過ぎている嫌いがあった。次回からは、何処までプロットもオリジナル色を出してゆくのかが注目される。もし、ルークがレイに修行を付けて、その最中に何らかの理由——例えば目覚めたフィンのピンチを幻視するとか——で修行を途中に放棄して飛び出して行ったとしても、ルークなら止めはしないよね? と云うか止めたら皆ツッコむよ。

 

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連休1日目ーー「シャーロック」観たり等

昨日は、昭和の日と云うことで、連休の一日目だった。

天気は良かったのだが、風が強い。おまけに夜は少々寒かった。

貧乏閑ありと云う謂いはないが、文字通りお金のない連休程、閑なものはない——と云うのは、明らかに凡人の発想なのだろうが、自分は凡人であることには一廉に落ちることはない為、あるようで直ぐに、そして無為の内に過ぎ行く時間を無い知恵を絞って愉しまなければならない。

無為を愉しまなければ——と云う義務的表現もおかしなものだが。

 

愉しみ自体に、何か別の目的を持ってする訳ではないが、一つの行為に目的が複数あってはいけないと云うこともないだろう。

 

朝方から午前中に掛けては、脳の活動が比較的活発になると云われるので、連休二日目の午前にこれを書いているが、特に何を書こうと云うテーマも決めず、また、昨日何をしたと書く積もりもないので、何時もの如く大変抽象的な記事になることを、若しこのブログを読んでいる方がいるのなら、ご寛恕願いたい。

しかし、抽象的な事柄こそ、言葉の本義であり、それをある種の藝にまで高められれば、それは此方の本懐でもある訳だ。……そうなる素質と才能と、そして継続的努力が伴っていればの話だが。

 

とは、云いつつ、出来るだけ無為にとは思いつつも、連休を一切何もぜず、寝てばかりいる訳でも、ある意味残念ながら、ない。

先だってM、日本では劇場公開された、BBC制作の海外ドラマ「シャーロック」だが、早くもNHKBSプレミアムで放送と云うことなので、まだ観ていない回(意外と多くあった)や、再放送で観逃した回等を纏めてレンタルしてきて、一気に観てしまった次第だ。

再度のものもあるとは云え、どれも面白く観られた。特に、原作の本歌取りの巧さ、しかも、小ネタとしては勿論、ツイストの効かせた巧さには、思わず観入る。脚本は主に、ゲイティスともファットの二人が書いているようだが、それはどこかエラリー・クイーンの創作方法を思わせる。複数の意見が有機的に合わさることで、より相乗的に面白くなると云う好例か。

そんなこんなで、単にDVDを観て夜更かししただけで、計画通りとか抜かす積もりはないが、まァ、身の程に合った連休初日であったことは確かだ。

別段、漫画の神様の教えを態々引くまでもないが、読書にしろドラマ・映画視聴にしろ、単に漠然と読んでいる・観ている訳ではなく、インプットとして行っている積もりだ。

そうしたインプットに伴うアウトプットとしてこのブログもあるのだが、まァ、他者にとっては、特に読んでて面白い訳でも、含蓄がある訳でも、知識が増える訳でも、認識が改まる訳でもないことは請け合っておく。勿論、云い訳だ。

 

皆さんも、良い連休を……。

 

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前田健の功績ーー「プリキュア」シリースに関して

多くの方が既に触れ、テレヴィでもここ連日報道されているが、タレントの前田健が亡くなった。

普段、余りテレヴィを観ず、芸能情報にも疎い自分が、かの名を知っていたのは、自分がアニメ「プリキュア」シリーズの一ファンであるからだ。

 

前田健氏は、プリキュアシリーズの功労者に一人である。6年目の作品「フレッシュプリキュア」以降、エンディング・テーマのムーヴィがオールCGのダンスとなった。それは、現在の「魔法つかいプリキュア」まで受け継がれている、当シリーズの伝統だ。

その最初の振り付けをしていたのが、前田氏だった。

「フレッシュ」に始まり、次作の「ハートキャッチプリキュア!」、「スイートプリキュア♪」そして「スマイルプリキュア!」と、次の担当であるMIKIKOさんにバトンタッチするまで、六つの曲にダンスを振り付けたことになる。その走りが前田氏だった。

フレッシュプリキュア!」では、レギュラーキャラクターの声も担当し、単なるタレント起用のゲストに止まらない活躍を見せた。そんなプリキュアシリーズに偉大な功績を遺したことだけでしか、自分は氏の活動をよくは知らないのだが、自分にとっては、それだけで尊敬する人物だった。

誰しも死は悲しいものだが、そうした方の逝去は一等そうだ。

 

プリキュア」シリーズは、基本、比較的幼い女の子向けのアニメである。当時プリキュアを観た多くの子等が、エンディングのダンスに夢中になったことだと思う。そうした、幼い頃の掛け替えのない体験、思い出として、氏が寄与したことは、直接的ではないにしても、正に世代を超えて、伝わってゆくことと思う。

 

早過ぎる氏の旅立ちに、ご冥福をお祈りしたい。

 

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ゴールデンウィークと読書

もう直ぐ連休ということで、中には今週の金曜日から、再来週明け辺りまで休みの方もいらっしゃることだろう。

以前洛中に住んでいた頃は、ゴールデンウィークと云えば、京都産業会館「みやこめっせ」で開かれていた春の古本市に出かけて行ったものだ。

今は、まァ、貧乏暇なしと云うか、時間はあるので、手持ちの中から読書を進めようと計画している。

ご多分に洩れず、連休前の計画を立てること程楽しいことはない。学生時代の夏休み前を思い起こして欲しい。

そして、皆さんの予想に背くことなく、その計画は、大概がその通りに履行されることはないのだ——。

 

矢張り、貴重な休みにすると云ったら、読書だろう。

読書なんて、食事や呼吸と一緒と常々嘯いているくらいだから、ここに態々書くのもおかしなものだが、普段それなりに計画しながら食事をするように、偶には読書計画……と云うか読書希望を羅列してみたい。そして、今回のブログのお茶を濁したい。

 

目下、絶賛読書中なのはジョイス『若い藝術家の肖像』(丸谷才一訳、集英社文庫)だ。漸く Ⅱ章に這入った所で、まだまだ先は長く楽しめそうである。

また、 上記の小説のモティーフの一つが「ダイダロスとイカロス」なので、先日オウィディウス『変身物語』(中村善也訳、岩波文庫)を注文し、手許に届いた。

合わせて、呉茂一『ギリシア神話』(新潮文庫)も注文中だ。どうやらGWは、まとめてギリシア神話週間になりそうな予感。一つのテーマをまとめて読んでみるのもまた、学生時分以来なのでよいかもしれない。

無論、浮気な自分のことだから、別なものに手を出し、当初の目論見とは異なった方へと迷い込む可能性は大だがな。

 

実を云えば、先日、参加している文芸同人で提出した拙作が安易に「ダイダロスとイカロス」のテーマを取り入れたものだったので、それを新たに書き直す為にも、一度その辺を表面的にだが浚っておこうとも思っている次第。ジョイスのまたその一環である。神話、または神話的モティーフを現代を舞台にした小説にリンク、若しくはオーヴァーラップさせる方法には、その必然性はともかくとして、時空的な壮大さを感じさせることは虚構の醍醐味であり、よって結構憧れる。

 

皆さんにも、良き黄金週間が訪れんことを……。

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能「隅田川」と、古典からの引用について

NHKEテレで夜10時からやっていた「古典芸能への招待」を観る。

狂言「鐘の音」、語「那須与市語」、そして能「隅田川」の三本立てだ。

語「那須与市語」は平家物語の扇の的のシーンを、野村万作が独りで巧みに語り手、判官義経、与市等の四役を巧みに演じ分ける。その語りや所作も相俟って、躍動感すらあり、眼と耳で観客を飽きさせない。

 

また、能「隅田川」は、人買いに攫われた我が子を追って、京から東国の隅田川に差し掛かる母親の話。

前半には、台詞や謡の随所に伊勢物語からの引用がある。

古典を引用して、場面と場面をリンクさせるという方法は、今以て採られている手法であるが、やってみると中々難しい。なまじっかな知識では、作者の単なるひけらかしに終わってしまい、場面や作品自体を重層的に演出することに繫がっていないことが、自分の際には多々ある。

無論、能という藝能がそもそも色々な前提的知識を鑑賞する側に要求するものであるのは、自明であるが、しかし、それは古典的教養を血肉とした者が作し、そして演じるのであるから、その厚みは自ずと効果を表す。

 

そうした点に関心しつつ、単に知識として記憶するばかりではなしに、それを自身の血肉とし、また自在に加工して効果的にアウトプット出来るよう精進することが必要だと感じた。アマチュアな表現者であっても、また、日々を生きる身としても。

 

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