奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

休日の過ごし方——或いは岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」を観て

と、云う訳で、10月も既に下旬だ。

どうしても、うかうかしていると、長文を書く習慣が乏しくなってしまう。その習慣化、もとい嘗てのリハビリも含めて、また、常日頃考えていることを再確認、あわよくば再発見する目的で、このブログを始めたものだが、一箇月に一本記事を書けは良い方になってしまっている。

由々しき事態だ。まァ、そんなに大袈裟なものではないが……。

大体休日においてもそうだ。前日、若しくは当日朝から、その日1日何をするか、幾つか具体的に予定を決めておかないと、ダラダラと本を読み、午睡をし、1日が終わってしまう。無為こそ最高の贅沢だというのが個人是ではあるが、もう一寸生産的に人生を過ごしたいという、人並みな欲求もあるにはある。

以前は、ブログを書くにも、ある一個のテーマを決めて(例えば読んだ本の感想等)書こう書こう、そうした方がリーダビリティも高いと云われていて、そうしようと試みてきたのだが、中々、ネタ自体は幾つかあるが、それを巧く、ひと纏まりの文章にして提出するのは、元来の怠惰な性格故か、続かない。

そもそも、そう質の高い文章を書く技能もセンスもない。これも由々しきことだ。

なので、正に日記的に、その日の出来事や雑感を書いて行く当初のスタイルに戻そうと思う。そうすれば、多少は更新頻度も上がる——かも知れない。ようは、或る程度の分量を書くことが、今は肝要である。

 

今日は、以前勧められていた、岡本喜八監督版 「日本のいちばん長い日」(1967年)を観る。モノクロ映像と、仲代達矢のナレーションが、原作のドキュメンタリー性を際立たせている。昨年の原田眞人監督版と較べて、鈴木貫太郎へのフォーカスは少なく、三船敏郎演じる阿南陸相がソフトのパッケージにもなっている。だが、原田版と比して阿南の場面が多いとは感じない。寧ろ、終戦路線の内閣と陸軍との間で葛藤し、立ち回る姿は、原田版に較べて余りないように思われた。

しかし、三船を始め、昭和顏の俳優陣が、演技にリアリティを与えている。以前黒澤明は、時代劇を造らなくなるに当たって、侍顏の日本人がいなくなってきたと云ったそうだが、そろそろ昭和顏の日本人も少なくなってきているか。

時代のもを撮る、しかも、映像が残っている近代ものを撮るにおいて、それも深刻だろう。だが、今の俳優が、今の演技で、時代的な迫真性を演出することにもまた期待したい。懐古するのは簡単で愉快だが、幸か不幸か時間は先に進むものだ。

岡本版の本編には、時折実際の映像が挿入される。それは学徒出陣の光景であったり、玉砕した人々の姿だったりする。それがノンフィクションとして、戦争の悲惨さを伝える。映画の最後で、仲代のナレーションが、日本はこうした愚を繰り返してはならないと云うが、しかし、戦争の悲惨さを訴えるだけでは、今はもう戦争は防げないのではないか。

ああした悲惨な目に遭わない為にも、先制攻撃が必要だ——そうした言説は、現代において確実に説得力を持つ。

火垂るの墓」を映画化し、戦時に無力な子供達の末路を容赦なく描いた高畑勲は、同じ理由で、件の映画に反戦の効果は、既にないと云っていた。戦争の悲惨さを知ると同時に、それは、起こってしまったら、誰彼構わず、その戦禍を逃れる術はないと理解し身に染みることこそが、現代の厭戦に対して必要だと思われる。

「殺したくない」と云う強い意志こそが。

 

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もう直ぐ10月——後インプットについて

と云う訳で、9月ももう直ぐ終わってしまう。実は、もう終わっていると半ば思っていたのは内緒だ。

大体9月も末になると、数年前に遭った碌でもないことを思い出すので、余り今何時だっけとか、努めて考えないようにしているのだが……。

 

毎秋恒例と云うか、Appleの新作発表会があり、自分も多くの(?)方々と同じくMacBookの新作 ——具体的には、MacBook Airの新作——を期待した訳だが、触れらりたりはしなかったようだ。

まァ、ドル箱がiPhoneだから、仕方ないというものだろうが、MacBookを買い換えるなら、最近出た新作をと常々思っている身からしたら寂しい。もう三年も音沙汰なしかと思う。

しかしながら、iPhoneも買い換えて二年が経つので、次は「7」にすると云うのも一つの手だが。

 

話題は変わるが、夏休み前でなくとも、計画を立てるのだけは何時も愉しいものだ。それは読書計画も然りである。だが、いざ、それを実行する段になると、その計画通りには往々にしてゆかない。テキストエディタに、チェックボックス付きで、読みたい本を優先順に列記してゆくこと程、悦に入ることはない。読む気もあるし、読んだら面白いことは判っている。だが、不思議と、その通りにゆくことは少ない、と云うか、ない。

大体、「いざ、読む」と云うような、気張ったことは、殊読書に関してはしない。気が付いたら、何か読んでいる。読む行為にシームレスに移行しているものだ。そもそも、人に「貴方、息していますか?」と訊く者があったら、大方奇異に感じるだろう。読書もまたそんな感じだ。詰まり、レヴェルとして呼吸と一緒なのである。

 

しかし、例えば映画やテレヴィドラマとなると、若干違う。それは毎週観ているようなテレヴィアニメ等でもそうだ。あれには一寸した心構えが必要だ。一種の非日常へと入り込むと云う覚悟のようなものだ。気持ちやテンションを、そっちへと持っていかねばならない。だが、テレヴィや映画の方が受動的である。こちらか積極的に頁を捲らなくとも、情報は向こうの方から視覚を通じて飛び込んで来てくれる。そうした意味では、一度気持ちが乗ってしまうと楽かも知れない。

 

因みに、最近読んだ本、見た映画等は以下の通り。感想はまた今度。そう云えば、アウトプットの方が、インプットに較べずっと難しい。勿論、インプットもそれ相応の難しさがあるのだが。

 

最近読んだ本↓

最近観た映画↓

最近聴いた音楽↓

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永遠のR2-D2——或いは最近の読書について

ケニー・ベイカーが亡くなったのは、ちょっとショックだ。

無論、自分が一番かの俳優に親しんだのは、顔出しすらしていなかった「スター・ウォーズ」シリーズなのだが、彼の演技が、あのユニーク且つユーモラズで、最も頼りになるR2-D2に生命を与えているのは、映画史に残る偉業だろう。

それは、「スター・ウォーズ」が、大人ばかりか子供も夢中になれる作品であることもまた、重要な要素だ。映画と共に、R2は子供の心に一生生き続けることになる。

 

以前、クリストファー・リーが亡くなった際も大いなる悲しみだったが、贔屓にしている有名人の死と云うものもまた、その年齢に関係なく、悲嘆を招く。

 

そうこうしている内に盂蘭盆会も明けた。お墓参りに行ったりはしたが、仕事柄休日はカレンダー通りなので、何時もの休みのような気がした。ただ、八月の第二週は、山の日があったり、夏休みで実家に帰省した友人に、有給を取って会いに行ったりと、色々していて忙しかった気がする。

その中で、迂闊にも、自分の粗忽さの所為で、思わぬ所で足を掬われたのだが……。

 

読書の方は、余り計画通りに、と云うか、目下計画を立てる所まで行っていない。『女系家族』等、中途で置いてあるものも幾つかあるので、それを優先的に読みたいが、気軽に読めるエッセイ等に走ってしまう。

また、以前参加している文芸サークルで発表した作品を改稿する為に、参考図書があるのだが、それも触り程度にしか読めていない。時間の使い方を大幅に見直す時に来ているのだろう。

しかし、息をするように本は読むものだ。連続性はなくとも、何かしら一日の内で読んではいる。最近は文庫化した山田風太郎『風山房風呂焚き唄』(ちくま文庫)が座右だ。食、旅、読書、そして別荘である風山房をテーマとしたエッセイの一つ一つが、短くあるものの、ユーモアと、時にペーソスに溢れていて、可笑しみながらも、ほろりとさせられるのは、流石山風。

簡潔且つ豊かな文章とは、斯くものかと感心すること頻りである。

 

まだまだ暑さが続くが、皆さんも良い本を読んで、より良い人生を送って欲しい。

ではまた。

 

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ハーラン・エリスンの思い出と新刊

世間は明日から盂蘭盆会だ。

そしてオリンピックと高校野球で話題は持ちきりだ——と思う。

残念ながら、お盆は兎も角、スポーツの祭典の方は何方も詳しくは知らないし、今後急に詳しく知ることもないだろう。エクスキューズをしておくが、別段これは二つの夏のスポーツの祭典をdisっている訳ではないので、悪しからず。

 

ハーラン・エリスンは、学生時代に 短編集『世界の中心で愛を叫んだけもの 』(ハヤカワSF文庫)を読んで、新刊も出ないものかと待ちわびていた作家だ。

コンベンションで当時既に大御所だったアシモフを捕まえて、「あんたの書くものは駄目だ」といちゃもんをつけたり、奥さんだか恋人だかを取っ替え引っ換え(品のない表現で申し訳ない)したりと、作家自身が独特であったと読んだのも、上の短編集だったか。

 

幾星霜かを経て、国書刊行会の〈未来の文学〉という叢書から、主にSF以外の短編集『愛なんてセックスの書き間違い』が出ると出版社の広告で読んだ時から、遂に新たな本がでるのかと胸を躍らせたものだ。

 

そして、今月、ハヤカワSF文庫の新刊として『死の鳥』が刊行された。

 

『世界の中心で〜』は、表題作も含め、粒揃いの一冊である。

世界の中心クロスエポンに閉じ込められている〈けもの〉。それは戦争を最大とする争いの中核であり、〈けもの〉と同調するかのように無差別殺人を繰り返し、裁判の席で人類全体への愛を高らかに叫ぶ男。この、時空を超えたリンクこそ、当作の醍醐味であり、それはメタファーという抽象を超え、実際的な暴力への具現化である。世界の中心には〈けもの〉がいる。世界の中心は飽くなき暴力である。しかし、それは高らかに、偽りなく、愛を叫ぶのだ。愛と暴力は世界の中心で表裏一体であり、同質である。

 

その他、宇宙人を薬漬けにして従わせ、地球に復讐に来るジャンキーの話等、ユニークなヴァイオレンスに溢れたセンス・オブ・ワンダーが愉しめる。

 

今作 『死の鳥』は、恐らく雑誌に掲載されたものを纏めたのだろうが、そこまでSF読みではない自分には、どれも未読だ。手許になく確認出来なかったが、『世界の中心で〜』と重複しているものもないと思う。最近、SFからも遠ざかっていた身としては、一つまたSFへと回帰してゆく良い契機となるだろう。

 

想像力は人間本性の能力である。そして、それが生み出す真に優れたフィクションは、イマジナリィでありながら、どこまでもリアルを変える程エネルギッシュだ。

 

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葉月初旬にてーー傾向と読書

何時の間にか夏だ。

わざわざ、はてなさんから、そろそろブログ来ませんかメールが届いたからと云う訳でもないが、取り敢えず更新してみる。ネタは探せば沢山あるものだが、それを加工して他者に発信出来る文章にするのが、困難だ。無論、文章に限らず、凡そ表現者は、この「困難」に妥協してはならない。

 

とは云え、今回、特に具体的なテーマについて書く積もりも準備もないので、またまた雑駁で抽象的あ近況報告でお茶を濁したいと思う。濁りがあるお茶が、本物っぽいとCMでも云っていた。嘗て。

 

先々月まで時折話題にしてきた参院選も終わり、続いた都知事選も終わった。

それに関して、殊更云々する積もりはない。当日までに何かあったらと心配なので、自分は期日前投票の初日に行ってきた。薄給でも所得税は納めているのだ。棄権等以ての他である。

 

夏になると、大手出版社が、文庫フェス(?)を行っているのは、毎年恒例だ。

去年は谷崎潤一郎が亡くなって50年が経ち、著作権が切れた。これから青空文庫にも続々テキスト化されるであろうし、最近では、角川文庫が、『細雪』を新装版で発売した。内田樹の新たな解説付きだ。中公文庫の全一冊、そして新潮文庫の三冊と合わせて、文庫としては三種が、現在入手可能と云うことだ。夫々表紙や装丁に赴きがあっていい。勿論、全部持っている——と云うか、気付いたら買っていた。

 

谷崎について、数年前に出た小谷野敦著『堂々たる人生——谷崎潤一郎 伝』(中央公論新社)も少し前に読んだ。著者が断っている通り、作品論は控えめで、伝記である。しかし、それが却って、谷崎の人生や当時の社会状況を浮き彫りにさせていて読み易く、興味深い。また、機会があれば、感想も書きたいと思う。

 

誰しも多少の差、内容の差こそあれ、対外的にも、ドメスティックにも悩みは尽きないものだが、別段、現実逃避ではなく、また、そこに積極的な解決策を見出す積もりもなく、只々、毎日食事をするように、更には呼吸をするように、本が読めたと思う。その為の「生活」は、死守しなければならない。

 

では、皆さん、夏風邪と熱中症にはお気を付けて、良い本を沢山読んで下さい。

 

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選挙についての雑感

個人的な日々な全く変化しないにも係わらず、世の中は何時になく、と云うか何時ものように急速に動き、変化している。

先のイギリスにおけるEU残留離脱投票とその結果も一つであり、投票と云えば、来月に控えている参院選もその一つだ。

 

参院選については、既に期日前投票を終われせた身としては、座して結果を待つしかない。因みに、個人的に、所得税を払っているので、自分は絶対選挙には行く。また、投票日当日、及びそれまでに何か行けなくなる事態が起こらないとも云えないので、期日前投票を旨としている。

以前は日曜日が休日とは限らない職場にいた所為か、期日前投票事態は、もう投票の手法としては、一般化してしまった感がある。

一つ老婆心を示させて頂くなら、比例区は、党名よりも個人名を書いた方が良い。党の公約、候補者のホームページや演説を調べ、これぞと思った人物の名を書いた方が、比例で思わぬ当選をしてしまう、申し訳ないが、本来的に国民の代表者たるには相応しくない人が、うっかり当選してしまうことを防ぐことに繋がるからだ。

ネット、新聞、その他メディアと、個人がリサーチするには限界があるが、公約と候補者の云っていることが反していないか、その公約、また候補者の唱える政策が自身の心情及び生活改善に本当に役立つのか、忙しない生活の中でも、一定の熟慮をしてゆきたいものだ。

一票は、自分個人の生活に実は密接に影響することは、幾ら衆院選とは見劣りする参院選であっても、云うまでもない。

 

政治の当事者、詰まり政治家の立場からすれば、政治の本質とは、権力を握ることである。しかし、その権力にタッチする為には、政策を提示し、国民多数の理解と支持を得なければならない。それが一応民主主義の原理だ。(民主主義の一面がマイノリティの黙殺であることは、また機会があれば感じたことを書きたいので、ここでは取り敢えず置く)。

その政策こそが、個人の生活に直接または間接に影響する。事実は常に多面的である。経済政策が奏功し、雇用が増える一方で、社会保障費は上がっているのである。一面を見てその政策に成果があった、詰まり個人の、自分の生活が良くなったと感じるだけでなく、バランス感覚を持って、複眼的、複数の面から複数の価値をそれぞれ評価して総合することが、大局的な評価に繋がるのだと思う。

 

無論、それには考える力、情報を集め、精査する力、そして分析し、結論を導く力が必要になる。そうした能力は、直ぐには換金出来ないかも知れないが、客観的視点、冷静な判断力、そしてそれらに基づいた実生活をより良くしてゆこうとする実践力が必要になるし、常にそれらを身に付け、ブラッシュアップしてゆけたらと思う。

思っているだけでは、不充分なのだが……。

とまれ、座して行く末を待つのは、極言すれば座して死を待つに等しい。むざむざ不利益の穴に滑落してゆくことのないよう、不条理を合理へと変える理性の力を鍛えるのに、選挙は良い契機ではあるまいか。

 

 

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谷崎「疎開日記」を読む

まとまった時間を取ろうと思えば取れるのがば、電車通勤でなくなって、本を読む時間は、比較的減少して久しい。

仕事が忙しいかと云えば、この御時世、そうであるに越したことはないのやも知れないが、今の所そうでもなく、家事もそうそう熟す必要もまたない。

しかし、まァ、読書とは呼吸と同等の行為でもあるので、気が付いたら、暇さえあれば何某か読んではいるのだが、まとまりのあるものを一冊読了すると云うことが、最近は少ない。

増えてゆく数冊を、ランダムにつまみ読みするくらいだ。

以前もそうだったが、そこで打って付けなのが、日記である。

嘗ても、「ゴンクールの日記」や、三島由紀夫『裸体と衣裳』等、日記を拾い読みしていた時期があった。現在は、谷崎潤一郎の「疎開日記」(『月と狂言師』中公文庫収録)をつらつらと呼んでいる。

先頃、関西への恋しさから『細雪』を読み、それが書かれた時期の、作家の生活を知りたくなったという理由も併せてある。

疎開日記」は、その名の通り、戦時中の作家の生活の記録だ。空襲で家人達を避難させた後、自分は『細雪』の続きを書いた等、創作の中心は件の進行中の作品である。

例えば、山田風太郎の『戦中派不戦日記』と較べて、戦時下の壮絶さというものは、山田日記程は感じて来ない。寧ろ、物質面、生活面では中々戦時下にあって、結構恵まれているのでは——と云う印象を受ける。実際恵まれていた方なのだろうし、それ故、泰然とまた淡々と状況を書いている。しかし一方、段々と日常生活が不自由になり、統制や禁止が増え、果ては進行中の作品の公開が、私家版であっても軍部の意向で発禁になり、空には、B29の編隊が飛んでいる——そうした否応ない戦時の状況下で、独り創作に打ち込むことは、幸運にも衣食住が何とかなっていても、並大抵のことではあるまい。また、昭和一桁の一般には暗い印象を持たれる時代を舞台に、美しく、且つ俗っぽいまだ平和な頃の、在日中の外国人とさえ 平気で交流できた頃の日本の 上流家庭の一風景を描くことが、作家にとってのある種のレジスタンスであったこは、論を待たないだろう。

しかし、そうして戦争を持ち出さなくとも、『細雪』は、意想外に理屈っぽい文章でありながら、時勢と伝統、聖と俗、情感と情緒を兼ね備えた豊かな傑作である。

疎開日記」は昭和20年8月15日、敗戦の日の玉音放送をラジオで聞いた日付で終わっている。しかしラジオの調子が悪く、昼12時の放送では、米英から無条件降伏の提案があったことが僅かに聞き取れたのみ。夜になって、奥さんから日本が無条件降伏した知らせだったと聞く。奥さんは泣いたそうだが、その際作家の心境は特に書かれていない。

 

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