奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

言葉を伝えることについて雑感

昨日の続きめいたものを書こうと思う。

表現と伝達、殊に書くと云う表現についてだ。

 

以前、参加している文芸同人で、凡そ表現者たるもの、その創作を通じて相手に何事かを伝える努力を怠ってはならないという趣旨のことを云われた。

正直、ショックではなかった。そうした考えは、至極当然なことだとも感じた。

しかし、自分個人は、特段そう考えていた訳ではない。それは或る種のアマチュア根性なのかも知れない。詰まり、自身が自由に好き勝手に書けるのなら、読者に伝える何事か——即ちテーマと云ったものが、不在でもよいのではとさえ考えていたのだ。

だが、その言葉は心に残り、時には心底に沈殿し、また時には意識に浮上することがあった。今でもそうだ。それはその当時、そして現在も、自分が仕事において言葉が伝わらないことに対して悩む、と云うよりは寧ろ障壁を感じていたのかも知れない。

自分の言葉(この場合は話言葉だが)は、他者には伝わらない。自分の言葉は聞かれないと云う 思いが大変強かった。それは、分別ざかりとは遠い、自意識過剰な稚拙な悩みなのだろうか。多分そうなのだろう。しかし、実生活でそれは深刻なのだ。営業職に就く、未知のお客と話す。そして、自分の性格に信頼を感じて貰い、その果てに必要を喚起された商品を買って貰う——これらは、相手との対話なしには成し得ない。それが成し得ないと云うことは詰まり、自分の言葉は伝わらず、相手の聴覚を刺激していたとしても、その意味するものは心には届いていないと云うことだ。

そうした状況もあって、自身の創作の世界だけは、謂わば自分だけの王国でありたい。あってほしいと無意識に思っていたのかも知れない。だがら、そこに相手に伝えるべきもの等必要ない。大袈裟であることを承知で云えば、自分の完璧な 藝術世界に他者等不必要だとすら、かなり意識して思っていたのだ。

そうした考え、若しくはスタンスが間違っているとは今でも思わない。そして、それが正誤で判断される性質のものでもないと思われる。

だが、嘗て、テキストとは開かれたものだと思っていた頃もあった。文章は、それのみで完結していると同時に、各所へのリンクを内包している。それは、論文の巻末に載せられる参考文献や註釈等であり、それ程明確でなくとも、本文への引用然り、また、本文から喚起される別な作品への連想である。

そうした作品の持つリンク、広がりは、読書体験を通して一個人の内面を拡張してゆくことに他ならない。そうした内的リンク、広がりは、一方で、書き手から読み手へ対する、伝えるべきものにも成り得るとも、牽強付会を承知で思う。

会話は、否応なく眼前の相手を想定する。相手の言を汲み、それを考慮して、自身の思いを伝えようとする。特に仕事におけるそれ、実生活におけるそれが巧くいっていないと云うことが、長年の自分の躓きの石であるようで、翻って自分が書いてきた創作に、他者へのメッセージを必要としない、寧ろ意識的なまでに拒絶する方へと、自分の心理は働いていたのかも知れない。

実生活の話し言葉についての個人的な問題は、ここで一旦擱く。

同人にしろ、また新人賞に応募するにしろ、そしてこうしてブログで拙文を垂れ流すにしろ、書き言葉に関しては、こうして発信する機会が多様にある。そこでは、否応なく、相手=読者を意識せざるを得ない。書き言葉と話し言葉は、今持って自分の意識の上では、分離している。しかし、こうして書き言葉に、なにがしかの心を込めれば——それが未だ独り善がりな、取り留めもない独白染みたものだとしても、他者へと伝わる言葉への訓練にはなりはしないだろうか。

ここでは、まだ何を自分が考えているかと云う混沌とした段階に留まってい。正直、譬え極く個人的なブログであっても、正直発信する程のものではない。だが、その蛮勇を敢えて冒し、今一度、創作の完成の果てに、読者が存在していることを強く意識したい。それが、文章のリバビリであり、訓練であり、創作への次元へと繋がるのではと思う。

創作は、自分の想像のその限界を突き抜けなければならない。しかしそれは、一見して荒唐無稽なものに陥りがちだ。だが、その想像の限界を超えたものを、読者に伝えることが、窮極的には創作の醍醐味なのだ。

 

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言葉についての個人的問題——話し言葉編

丸善ジュンク堂ネットストアの延長で、hontoを利用している。紙の本と電子書籍のサーヴィス・フォームだが、自分は専ら紙の本を注文するのに使っている。電子書籍は、iPhoneで一時期利用したことがあるが、最近は紙の本へと回帰してしまった。iPhoneだとデヴァイスとしてはちょっと小さいのだろうか。かと云って、KindleiPadを用立てる目処が(金銭的に)立たない。

不景気なことは、今に始まったことではないが、今月はしかし本を買い過ぎた。しかも、嘗て持っていて、数年前引越しをした際に手放してしまったものが多い。今日届いたのは、アメリカでもドラマ化され、最近エミー賞まで受賞したほ「ゲーム・オブ・スローン」(邦題)の原作である「氷と炎の歌」第3部『剣嵐の大地』上中下の三巻だ。

何故か第四部『乱鴉の饗宴』は手許に置いておいたのだが、一部、二部、そして今回再購入した三部は里子に出してしまったので、しかも三部は未読だったりしたので、今回改めて購入した。ファンタジー熱が高まったか……。

 

それにしても、最近幾ら本を読んでも、相手に何事かを伝えるということは、自分にとって永遠の課題だ。それはコミュニケーションとも云えるかも知れない。酷い云い訳を承知で申せば、性格的に他者と意思疎通を図ろうとすることは苦手だった。苦手というより、自分個人がその必要性を本能的に感じられていないかも知れない。

かの伝説的編集者・花森安治は、読者が判り易いように工夫して書けと云ったそうだ。そして、そのコツは、話すように書くと云うことらしい。だが、自分自身にとって、書くことと話すことは、別な行為——のような気がする。書く時と話す時では、別な脳の部分を使っている気がしてならない。明治 期、新たな日本語を創り、日本人の知的向上に貢献した言文一致運動にはそうした意味でも頭が上がらないが、書くにも話すにも、自分にとっては意識的な訓練が必要だ。兎角、不特定多数の未知の他者を想定し、その方々に「判り易く」アウトプットする、就中「書く」ことによって伝達することにおいては。

言葉を遣う、もとい司るのは、或る種のセンスでありインスピレイションである。例えば営業職で、相手との何気ない会話から、セールス・パーソンにとってお客から必要な情報を引き出すことは、多少は経験で補えるかも知れないが、自分の仕事と、お客たる相手に対する興味に由来する、その場その場のライヴ的オーラル・パフォーマンスである。

しかし或る人々は、自分も含めて、自身のことを語り勝ちだ。そして同時に、他者に関心が薄かったりする。賢人は、譬え自己の性格がそうした独り善がりなものであったとしても、他者と、延いては社会と折り合いを付け、上手に仕事でもプライヴェートでも結果を出すのだろう。それが経験を積んだ分別ざかりと云うものだ。

ところが他方、自身の言語伝達能力、即ち、自分の発話を判り易く相手に伝え、それを用いた会話から自分の意図する相手の情報や感情を汲み取ることに不得手な、本性的内向型の人間もいる。それは若しかしたら、単に実生活や仕事を行うだけでなく、凡そ表現者として不適格なのではなかろうか。

そうした内省と打開の願いを籠めて、このブログはあるのだが。

三十代は嘗て分別ざかりと呼ばれた。その年齢に差し掛かって、自分は大して経験やインスピレイションに裏打ちされた分別を持つに到っていない。そこには、言語の問題が横たわっているような気がしている。自分の口語は、社会ではそう役に立たないという実感が、ここ数年頻りとするのだ。言語による社会との和解、若しくは格闘が、 自分の「分別ざかり」の年代の主題となるような気がしてならない。

 

今回は、珍しく自分のそうポジティヴはと云えない、しかも極く極く個人的な話題を書いた。相変わらず、読者に伝わり易いとは云い難いが、今回は問題提起編その1だ。

次は、書き言葉に関して、自分の思っている、感じている、諸問題を書きたいと思う。少しは読者に届くよう、また、有益な話題になるよう余り気張らずに、しかし微力を尽くしたい。

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休日の過ごし方——或いは岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」を観て

と、云う訳で、10月も既に下旬だ。

どうしても、うかうかしていると、長文を書く習慣が乏しくなってしまう。その習慣化、もとい嘗てのリハビリも含めて、また、常日頃考えていることを再確認、あわよくば再発見する目的で、このブログを始めたものだが、一箇月に一本記事を書けは良い方になってしまっている。

由々しき事態だ。まァ、そんなに大袈裟なものではないが……。

大体休日においてもそうだ。前日、若しくは当日朝から、その日1日何をするか、幾つか具体的に予定を決めておかないと、ダラダラと本を読み、午睡をし、1日が終わってしまう。無為こそ最高の贅沢だというのが個人是ではあるが、もう一寸生産的に人生を過ごしたいという、人並みな欲求もあるにはある。

以前は、ブログを書くにも、ある一個のテーマを決めて(例えば読んだ本の感想等)書こう書こう、そうした方がリーダビリティも高いと云われていて、そうしようと試みてきたのだが、中々、ネタ自体は幾つかあるが、それを巧く、ひと纏まりの文章にして提出するのは、元来の怠惰な性格故か、続かない。

そもそも、そう質の高い文章を書く技能もセンスもない。これも由々しきことだ。

なので、正に日記的に、その日の出来事や雑感を書いて行く当初のスタイルに戻そうと思う。そうすれば、多少は更新頻度も上がる——かも知れない。ようは、或る程度の分量を書くことが、今は肝要である。

 

今日は、以前勧められていた、岡本喜八監督版 「日本のいちばん長い日」(1967年)を観る。モノクロ映像と、仲代達矢のナレーションが、原作のドキュメンタリー性を際立たせている。昨年の原田眞人監督版と較べて、鈴木貫太郎へのフォーカスは少なく、三船敏郎演じる阿南陸相がソフトのパッケージにもなっている。だが、原田版と比して阿南の場面が多いとは感じない。寧ろ、終戦路線の内閣と陸軍との間で葛藤し、立ち回る姿は、原田版に較べて余りないように思われた。

しかし、三船を始め、昭和顏の俳優陣が、演技にリアリティを与えている。以前黒澤明は、時代劇を造らなくなるに当たって、侍顏の日本人がいなくなってきたと云ったそうだが、そろそろ昭和顏の日本人も少なくなってきているか。

時代のもを撮る、しかも、映像が残っている近代ものを撮るにおいて、それも深刻だろう。だが、今の俳優が、今の演技で、時代的な迫真性を演出することにもまた期待したい。懐古するのは簡単で愉快だが、幸か不幸か時間は先に進むものだ。

岡本版の本編には、時折実際の映像が挿入される。それは学徒出陣の光景であったり、玉砕した人々の姿だったりする。それがノンフィクションとして、戦争の悲惨さを伝える。映画の最後で、仲代のナレーションが、日本はこうした愚を繰り返してはならないと云うが、しかし、戦争の悲惨さを訴えるだけでは、今はもう戦争は防げないのではないか。

ああした悲惨な目に遭わない為にも、先制攻撃が必要だ——そうした言説は、現代において確実に説得力を持つ。

火垂るの墓」を映画化し、戦時に無力な子供達の末路を容赦なく描いた高畑勲は、同じ理由で、件の映画に反戦の効果は、既にないと云っていた。戦争の悲惨さを知ると同時に、それは、起こってしまったら、誰彼構わず、その戦禍を逃れる術はないと理解し身に染みることこそが、現代の厭戦に対して必要だと思われる。

「殺したくない」と云う強い意志こそが。

 

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もう直ぐ10月——後インプットについて

と云う訳で、9月ももう直ぐ終わってしまう。実は、もう終わっていると半ば思っていたのは内緒だ。

大体9月も末になると、数年前に遭った碌でもないことを思い出すので、余り今何時だっけとか、努めて考えないようにしているのだが……。

 

毎秋恒例と云うか、Appleの新作発表会があり、自分も多くの(?)方々と同じくMacBookの新作 ——具体的には、MacBook Airの新作——を期待した訳だが、触れらりたりはしなかったようだ。

まァ、ドル箱がiPhoneだから、仕方ないというものだろうが、MacBookを買い換えるなら、最近出た新作をと常々思っている身からしたら寂しい。もう三年も音沙汰なしかと思う。

しかしながら、iPhoneも買い換えて二年が経つので、次は「7」にすると云うのも一つの手だが。

 

話題は変わるが、夏休み前でなくとも、計画を立てるのだけは何時も愉しいものだ。それは読書計画も然りである。だが、いざ、それを実行する段になると、その計画通りには往々にしてゆかない。テキストエディタに、チェックボックス付きで、読みたい本を優先順に列記してゆくこと程、悦に入ることはない。読む気もあるし、読んだら面白いことは判っている。だが、不思議と、その通りにゆくことは少ない、と云うか、ない。

大体、「いざ、読む」と云うような、気張ったことは、殊読書に関してはしない。気が付いたら、何か読んでいる。読む行為にシームレスに移行しているものだ。そもそも、人に「貴方、息していますか?」と訊く者があったら、大方奇異に感じるだろう。読書もまたそんな感じだ。詰まり、レヴェルとして呼吸と一緒なのである。

 

しかし、例えば映画やテレヴィドラマとなると、若干違う。それは毎週観ているようなテレヴィアニメ等でもそうだ。あれには一寸した心構えが必要だ。一種の非日常へと入り込むと云う覚悟のようなものだ。気持ちやテンションを、そっちへと持っていかねばならない。だが、テレヴィや映画の方が受動的である。こちらか積極的に頁を捲らなくとも、情報は向こうの方から視覚を通じて飛び込んで来てくれる。そうした意味では、一度気持ちが乗ってしまうと楽かも知れない。

 

因みに、最近読んだ本、見た映画等は以下の通り。感想はまた今度。そう云えば、アウトプットの方が、インプットに較べずっと難しい。勿論、インプットもそれ相応の難しさがあるのだが。

 

最近読んだ本↓

最近観た映画↓

最近聴いた音楽↓

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永遠のR2-D2——或いは最近の読書について

ケニー・ベイカーが亡くなったのは、ちょっとショックだ。

無論、自分が一番かの俳優に親しんだのは、顔出しすらしていなかった「スター・ウォーズ」シリーズなのだが、彼の演技が、あのユニーク且つユーモラズで、最も頼りになるR2-D2に生命を与えているのは、映画史に残る偉業だろう。

それは、「スター・ウォーズ」が、大人ばかりか子供も夢中になれる作品であることもまた、重要な要素だ。映画と共に、R2は子供の心に一生生き続けることになる。

 

以前、クリストファー・リーが亡くなった際も大いなる悲しみだったが、贔屓にしている有名人の死と云うものもまた、その年齢に関係なく、悲嘆を招く。

 

そうこうしている内に盂蘭盆会も明けた。お墓参りに行ったりはしたが、仕事柄休日はカレンダー通りなので、何時もの休みのような気がした。ただ、八月の第二週は、山の日があったり、夏休みで実家に帰省した友人に、有給を取って会いに行ったりと、色々していて忙しかった気がする。

その中で、迂闊にも、自分の粗忽さの所為で、思わぬ所で足を掬われたのだが……。

 

読書の方は、余り計画通りに、と云うか、目下計画を立てる所まで行っていない。『女系家族』等、中途で置いてあるものも幾つかあるので、それを優先的に読みたいが、気軽に読めるエッセイ等に走ってしまう。

また、以前参加している文芸サークルで発表した作品を改稿する為に、参考図書があるのだが、それも触り程度にしか読めていない。時間の使い方を大幅に見直す時に来ているのだろう。

しかし、息をするように本は読むものだ。連続性はなくとも、何かしら一日の内で読んではいる。最近は文庫化した山田風太郎『風山房風呂焚き唄』(ちくま文庫)が座右だ。食、旅、読書、そして別荘である風山房をテーマとしたエッセイの一つ一つが、短くあるものの、ユーモアと、時にペーソスに溢れていて、可笑しみながらも、ほろりとさせられるのは、流石山風。

簡潔且つ豊かな文章とは、斯くものかと感心すること頻りである。

 

まだまだ暑さが続くが、皆さんも良い本を読んで、より良い人生を送って欲しい。

ではまた。

 

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ハーラン・エリスンの思い出と新刊

世間は明日から盂蘭盆会だ。

そしてオリンピックと高校野球で話題は持ちきりだ——と思う。

残念ながら、お盆は兎も角、スポーツの祭典の方は何方も詳しくは知らないし、今後急に詳しく知ることもないだろう。エクスキューズをしておくが、別段これは二つの夏のスポーツの祭典をdisっている訳ではないので、悪しからず。

 

ハーラン・エリスンは、学生時代に 短編集『世界の中心で愛を叫んだけもの 』(ハヤカワSF文庫)を読んで、新刊も出ないものかと待ちわびていた作家だ。

コンベンションで当時既に大御所だったアシモフを捕まえて、「あんたの書くものは駄目だ」といちゃもんをつけたり、奥さんだか恋人だかを取っ替え引っ換え(品のない表現で申し訳ない)したりと、作家自身が独特であったと読んだのも、上の短編集だったか。

 

幾星霜かを経て、国書刊行会の〈未来の文学〉という叢書から、主にSF以外の短編集『愛なんてセックスの書き間違い』が出ると出版社の広告で読んだ時から、遂に新たな本がでるのかと胸を躍らせたものだ。

 

そして、今月、ハヤカワSF文庫の新刊として『死の鳥』が刊行された。

 

『世界の中心で〜』は、表題作も含め、粒揃いの一冊である。

世界の中心クロスエポンに閉じ込められている〈けもの〉。それは戦争を最大とする争いの中核であり、〈けもの〉と同調するかのように無差別殺人を繰り返し、裁判の席で人類全体への愛を高らかに叫ぶ男。この、時空を超えたリンクこそ、当作の醍醐味であり、それはメタファーという抽象を超え、実際的な暴力への具現化である。世界の中心には〈けもの〉がいる。世界の中心は飽くなき暴力である。しかし、それは高らかに、偽りなく、愛を叫ぶのだ。愛と暴力は世界の中心で表裏一体であり、同質である。

 

その他、宇宙人を薬漬けにして従わせ、地球に復讐に来るジャンキーの話等、ユニークなヴァイオレンスに溢れたセンス・オブ・ワンダーが愉しめる。

 

今作 『死の鳥』は、恐らく雑誌に掲載されたものを纏めたのだろうが、そこまでSF読みではない自分には、どれも未読だ。手許になく確認出来なかったが、『世界の中心で〜』と重複しているものもないと思う。最近、SFからも遠ざかっていた身としては、一つまたSFへと回帰してゆく良い契機となるだろう。

 

想像力は人間本性の能力である。そして、それが生み出す真に優れたフィクションは、イマジナリィでありながら、どこまでもリアルを変える程エネルギッシュだ。

 

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葉月初旬にてーー傾向と読書

何時の間にか夏だ。

わざわざ、はてなさんから、そろそろブログ来ませんかメールが届いたからと云う訳でもないが、取り敢えず更新してみる。ネタは探せば沢山あるものだが、それを加工して他者に発信出来る文章にするのが、困難だ。無論、文章に限らず、凡そ表現者は、この「困難」に妥協してはならない。

 

とは云え、今回、特に具体的なテーマについて書く積もりも準備もないので、またまた雑駁で抽象的あ近況報告でお茶を濁したいと思う。濁りがあるお茶が、本物っぽいとCMでも云っていた。嘗て。

 

先々月まで時折話題にしてきた参院選も終わり、続いた都知事選も終わった。

それに関して、殊更云々する積もりはない。当日までに何かあったらと心配なので、自分は期日前投票の初日に行ってきた。薄給でも所得税は納めているのだ。棄権等以ての他である。

 

夏になると、大手出版社が、文庫フェス(?)を行っているのは、毎年恒例だ。

去年は谷崎潤一郎が亡くなって50年が経ち、著作権が切れた。これから青空文庫にも続々テキスト化されるであろうし、最近では、角川文庫が、『細雪』を新装版で発売した。内田樹の新たな解説付きだ。中公文庫の全一冊、そして新潮文庫の三冊と合わせて、文庫としては三種が、現在入手可能と云うことだ。夫々表紙や装丁に赴きがあっていい。勿論、全部持っている——と云うか、気付いたら買っていた。

 

谷崎について、数年前に出た小谷野敦著『堂々たる人生——谷崎潤一郎 伝』(中央公論新社)も少し前に読んだ。著者が断っている通り、作品論は控えめで、伝記である。しかし、それが却って、谷崎の人生や当時の社会状況を浮き彫りにさせていて読み易く、興味深い。また、機会があれば、感想も書きたいと思う。

 

誰しも多少の差、内容の差こそあれ、対外的にも、ドメスティックにも悩みは尽きないものだが、別段、現実逃避ではなく、また、そこに積極的な解決策を見出す積もりもなく、只々、毎日食事をするように、更には呼吸をするように、本が読めたと思う。その為の「生活」は、死守しなければならない。

 

では、皆さん、夏風邪と熱中症にはお気を付けて、良い本を沢山読んで下さい。

 

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