奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

桜の季節ですね

気が付けば卯月も終わろうとしている。

桜も地元では漸く咲き揃い、春めいてきていて、気もまた滅入る。五月病とは違い、春は気が鬱ぐ季節だ。きっと花粉症だからだろう。後、気温が高くなってくるのも影響しているのじゃあないか知ら、多分……。

 

ふと、家人に、お前は桜を見て何か感じる所があるのかと訊かれた。数秒思案したが、ない、と素直に答えた。桜を見た所で、特別な感慨を抱く訳ではないと。

そんな自分が素人の手遊びとして小説らしきものを書いているのだから、おかしさを通り越して滑稽ですらあるとも付け加えておいた。

例えば一千年前は花と云えば橘で、桜が花の代名詞とされるのは後のことらしいが、それでも桜は、往時より多くの人々によって、その様子やそれから受ける感興を表現されて来たと思われる。和歌を幾首繙いてもそれは容易に知れることだ。だから、また多くの人々が思ったように、桜を単に美しいと表現することには抵抗がある。別な表現で以て、或いは今までにない新鮮な感慨を、桜と云う一種のモティーフに託して受け手に届けるのが、表現者としての欲求の一つだ。

それは純粋さや素直さに欠けた心持ちかも知れないが、凡そ表現の面白さとは、そこへの努力に大いに拠るのではなかろうか。

多分、そうした自分の表現技術のレヴェル以上の欲求を抱くのが、桜を見て、いや、俺は特に何も感じないと云ってしまうことへの理由の一つだ。事実、桜を見れば春が来たことを否応もなく知る。すると気が滅入る。斯様に、自身の心は動く……。

しかし、そうした自身の心を、また桜に対して多くの人々が抱くであろう心情を、率直に表現したくはない。そこに独特なものを加えたい。それは下手糞な料理によって、素材そのものの味を台無しにするような結果になってしまっても、自分はそこに何か、自分たけの味付けを加えたいのだろう。誠、表現者気取りとは、厄介なものだ。

「桜は美しい」 ——その一言に到達するまでの道のりは、自分にとっては万里の距離であり、また平坦ではない。その為に、言葉を遣う。或る時は分析的に、そして或る時は綜合的に。

そうした詩のなり損ないが、今の自分の表現なのです。

 

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