奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

「めるきおーる」創刊号について

 先日、文学フリマ東京にて販売した「めるきおーる」創刊号には、拙文が巻頭言として載っている。同人誌の宣伝も兼ねて、今回はその巻頭言を公開したい。

 また、当日頒布した分に、急遽印刷した投げ込みをした。それは、巻頭言を小説風にアレンジしたもので、筆者としてはテーマが共通している。と云うか同じテーマの表現を変えてみたものだ。

 もしご興味が湧いたら、是非是非ご購入願いたい。

 

 

 

フィクションの魔法——創刊の辞  (巻頭言)

「事実は小説よりも奇なり」とは古くからの箴言だが、現代社会において、その事実と云うものすらいつの間にか曖昧模糊となってきているように感じられる。そもそも事実とは何か——そう問うことすら無意味に思える程だ。

 世はまさにフェイク・ニュースに代表されるポスト・トゥルースの時代へと突入した。

 カエサルの謂いに遡れるくらいに、古代から人間は見たいものしか見ない生き物だ。我々の周囲は無数の個別的事実で溢れている。また、一つの事象を巡ってすらも、そこには複数の事実が存在し、厄介になことに、或るもの同士は同じ事象に関係しながらも、全く反しているような様相を呈しているものさえ散見される。¬(A∧¬A)は矛盾律を論理記号で表したものだが、そこから括弧内を否定する記号を除いたA∧¬Aが恰も同時的に成立しているかのように見えてしまうのが、現在の我々の世界だ。幾つもの立場からの偏向された視点、それによる見方、格率は、濫立し輻輳し、各人の思惑によって一層複雑化して、それと共に複数の事実が沖の蜃気楼のように立ち昇ってくる。それら事実は、矛盾ばかりか、或る種の説得力と迫真性を孕みながら、それ故に我々を困惑させるのだ。そうした世界で、事象の単純化という反知性的手法は効果的とはいえない。

 では我々は何をもってして、ポスト・トゥルースの時代を生きてゆく——より良く生きてゆけるのであろうか。

 我々はここにフィクションをその術として提示したい。

 フィクションとはつまり虚構であり、嘘である。しかしその特徴は、我々がフィクションを嘘だと承知していることにある。しかもそれでいて尚、我々はその嘘に時として心を動かされるのである。それは「良くできた創造的嘘」たるフィクションが、現実に関わっているからに他ならない。

 圧倒的に暴力的な現実を前に、言葉は無力だといわれる。フィクションを作ることもまた野蛮だとさえいわれた(Th.アドルノ)。しかし我々はそれでも生きてゆかねばならない。次の瞬間をより良くして行こうと試みなければならない。現実が辛く、濫立する事実に惑わされるのであるなら、冷静な観察力と深甚な想像力によって、事象を理解する為に「良くできた創造的嘘」として我々が受け取った事象自体を再構築してゆくことも一つの術ではないだろうか。無論、それで事実が公平且つ画一的に確定する訳ではないし、厳しい現実を容易に克服できる訳でもない。だが、「良くできた創造的嘘」たるフィクションにより、我々は事象を冷静に捉え、時として感情移入し、また時としてそれを批判的且つ多面的に把握する。何故ならフィクションは嘘でありながらも現実と繋がっているから。現実との関係の中で、想像力によって創造的嘘を構築したものこそがフィクションだから。それは一面的で浅薄な妄想や放言とは対極をなすものである。

 言葉自体は無形なものだ。しかし言葉が、しかも嘘として自明な言葉の束が人の心を動かすことを我々は知っている。我々の理解を深めることを知っている。それこそがフィクションの力であり、魔法だ。

 濫立した事実と、それによる浮薄な言葉が氾濫する中、それに抗し、より良く生きる為の友として私はフィクションとそれが持つ魔法を信じている。

 乞い願わくば、この小冊子が、その魔法を宿さんことを。

 

 

 

没入・記憶・虚構——あるいは偶然の出会いについて (投げ込み原稿)

 仕事を離れて、職務権限の私的利用によってサイバーアーカイブに何の気なしに没入していた彼女は、ある電子データ化されたドキュメントを発見した。発見といっても、それはデリートされることなく、ある手続きを経てそこに保存されていたものだ。それは、彼女が肉体を具えた状態で生物的な実生活を送るこの土地が、東ユーラシア特殊学究開発特区と呼ばれる遙か以前、一つの国であった頃に創作された文学作品のようだ。

 一読彼女は、それを文学だとは思わなかった。それはかつて極東の弓状列島を国土の中心にした国のある自治体で、化学産業が起こした無責任な化学廃棄物の海洋への不法投棄とその悲惨な結果についてのレポートの態を取っていたからだ。それはインタビューを主に構成されており、回答者は固有名で登場していた。

 しかし、そうしたインタビューの記述や、それに答えたとされている人物たちは、実在したとされている被害者なのではなく、作者が綿密な取材に基づき構成し、創造した架空の登場人物たちであることを、様々な関連データに接続することにより彼女は知ることことになる。

 しかし、その悲惨な化学公害は、どうやら歴史上実際に起こったことのようだ。そして、その悲惨な記憶を留める役割を、その虚構である文学作品はよく果たしていた……。

 彼女はその数世紀前のデータの蓄積されたレイヤーから浮上する。

 そして、アーカイブの表層に没入したまま、揺蕩うように少しの時間考えた。

 記憶の継承について。文学作品が、つまり明らかな虚構の産物がそれを巧く果たすために機能してきたことについて。そしてデータ自体の事実性と虚構性について。

 更には、今やサイバーアーカイブにとって、ユーザーでありながらもそこに没入することで、その都度サーバーへデータを提供する彼女の自己について……。

 少なくとも、これで私は忘れない。私の提供する記憶は、いずれこのディメンジョンにおいて記録となり、大規模なデリートが行われない限りは残り続ける。あの文学作品によって知ることとなった、悲惨な公害についても。

 ディメンジョンサーバーの構築によって、ヒトは次元規模にデータを、記録を蓄積することが可能となった。しかし、それは何者かが接続し、閲覧し、記憶しない限り無意味なデータでしかない。

 しかしそのデータさえ残されていなければ接続しようもないのだと彼女は思う。

 余りに感じたことのない気分のまま、彼女はサイバーアーカイブからの更に浮上する。

 次の休暇にはパブリックのオープンアーカイブに所蔵されているフィクションに没入してみようと彼女は思った。

 

*参考文献

石牟礼道子苦海浄土』(講談社文庫他)、東浩紀「代弁の論理と『苦海浄土』」(『テーマパーク化する地球』(ゲンロン叢書)収録)。

 

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新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

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テーマパーク化する地球 (ゲンロン叢書)

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