奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

永遠の彼と彼自身——大江健三郎・追悼

私が大江健三郎の訃報を知ったのは、午後、病院の待合スペースに設置されたテレヴィ・ニュースでだった。それは緊急速報のような短時間のニュースで、今月三日に老衰で亡くなっていたこと、葬儀は近親者のみで済ませ、お別れ会を予定していること等が簡潔に報じられていた。情報源は講談社からのようで、『群像』Twitterアカウントから、出版社公式サイトの「お知らせ」へのリンクが貼られたツイートがされており、リンク先にはニュース内容と一致したことが掲載されていた。実質的に最終作となってしまった『晩年様式集』及び『大江健三郎全小説』の版元として、最近は講談社が作家にとって出版業界への窓口であったのだろう。

先週から体調が思わしくなかった私は、断続的に仕事を休みながら、通うことにそう体力を要しない近所の病院へと、今日も通院していた。その際の訃報だった。

二十代前半でデビューした大江の仕事は膨大だ。小説はもちろん、『鯨の死滅する日』や『厳粛な綱渡り』といった初期の大量の随筆。そして『ヒロシマ・ノート』『沖縄ノート』に代表される三十代でのルポルダージュ等多岐にわたる。しかも二十代終わりと三十代の初めという年代的な端境機には『個人的な体験』、次いで『万年元年のフットボール』という文字通り文学史に残ろう代表的傑作まで発表しているのだ。

地方出身者やある特別な体験をした世代が持て囃されるのは省みるべきであるが、しかし年齢的にも早い時期から出発した大江の文学活動も順風満帆だったわけではなさそうである。

松山から東大進学を機に東京へ出てきた大江は、ある教員に何気なく話しかけられた時、緊張から赤面し、方言が抜けず巧く返答出来なかったそうだ。件の教授は特に悪気もない様子で、台湾からの留学生でしたかと勘違いながらも気を遣われたとのことだ。それだけが契機ではないが、大江は自分の日本語を鍛えるところから始める。それは外国文学を原文で読み、日本語へ翻訳する過程を通じて、自分自身の日本語を作り上げ、練り上げてゆくていくという途方も無い作業だった。そうした原文一致運動にも似た行程の産物として、デビュー作『奇妙な仕事』がある。

更に編集者に『奇妙な仕事』と同テーマの変奏であることを指摘されたという『死者の奢り』。そこではホルマリン液に浸かる死者=屍体が、まるで主体性を持って液内を浮遊し、遊泳し、医学部棟の地下で不平不満をヒソヒソと漏らし合いながら実存しているような冒頭の小説だ。そして主人公「僕」を始めとして、曰くある関係者たちは、校舎裏の処分される野犬たちに翻弄されるように、本来物体でしか無いはずの死者たちを巡って右往左往することになる……。

大江は文学を読み、翻訳し、そして創作することによって、自分自身の日本語を苦闘しながら作り上げていったのである。初期短編集の珠玉のような輝くは、短編としての技術的な巧みさも当然併せ持ちながら、そうした苦闘の痕跡故でもあるのでと思われる。

しかし、そうしたある種幸福な短編の時代も、幾つかのユニークでパセティックな長編群を経て、決定的に打ち壊し、全く新しいものへと変容させてしまう出来事が作者を見舞う。しかもそれを機に、彼はデリケイトな意味でも特別視されるような事象へと対面し、それを主題としながらも、そこに留まらない彼自身の新たな文学の地平を開拓してゆくのである。それはどん詰まりの山間の村の、その山の先に一縷の杣道を見つけ出すような営みだった。そして、彼の文学は独自の普遍へと――彼の長年らいの友人の一人であった武満徹を評した言葉で言えば、多様な「永遠」へと繋がってゆくのだ。

 

私は長年、いずれ私自身のために、ネットの片隅くらいでしか発表する予定のないであろう大江健三郎に関するまとまった量のエッセイを書きたいと思っていた。幸い、全小説集が刊行され、関連本も研究書から入門書まで多様に入手可能であるし、ネット公開の論文も多い。少しづつ収集し、読んでいたが、これでは悠長すぎるのかもしれない。

読書は人を作る。大江にも『読む人間』と題した読書エッセイが存在する。師事した渡辺一夫が三年周期で読む本のテーマを変えよとの教えに従って、その時期のテーマをふんだんに取り込んで小説を生み出していったように、学生時代に始まり、その人生と仕事は読むことと考えることと書くことのサイクルで成り立っていたのだった。