奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

咳をしても一人

先週から続いていた体調不良は徐々に良くなってきて、普段の生活には難儀しない程度にまでなったが、今日も仕事は休みだった。晴れていたが、そんなに暖かくは感じない。

飲みさしの缶や、飲み終えたペットボトルが溜まっていたので、廃品置き場へと片付ける。自家用車の中にも臭いが残っているような気がするので、消臭剤を用意しなければならないだろう――そんなことを考えながら午前中が終わった。

夕刻近くに図書館へ行くと、本日朝刊の一面に昨日報じられた大江健三郎の訃報を多くの新聞社が掲載していた。コンビニでまとめて購入しようと思ったが、来月の「新聞ダイジェスト」で特集してくれるのを期待したい。

引き続き『晩年様式集』を読む。作中の話題は、「3・11」から余震、放射線物質、それらによる作家家族への影響から、作家の代表作である『懐かしい年への手紙』と『万延元年のフットボール』へと及び、時折『新しい人よ目覚めよ』が 顔を出す。

アカリを始めとした作中人物たちは、空から降りてくるアグイーを想像力の媒介とすることで、眼に見えない放射能を予感する。それは、今と照らし合わせるのなら、眼に見えないウィルスであるCOVID-19に似ているかもしれない。我々はこの三年、如何なる文学的想像力を以て、件のウィルスへと立ち向かったであろうか。そんなことを鬱々と考える。未だ人気の無い田舎の山中や川縁でマスクを外しても、引っ切り無しにくしゃみが出るだけだ。

先月から身体的に調子が良く無い。先週からの件もその一環であるよう。これから快方へ向かっていくのか、それとも今まで以上に自分の身体と向かい合わなければならなくなるのか。身体も自然のことなので、如何ともし難い部分が多い。そこで自分は文学的想像力によって立ち向かい、生活を送ってゆくことが果たして出来るのだろうか。