奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

やしょうまとコーヒー

今日はやしょうまだ。

 

約一週間ぶりに出勤する。一日特段体調に負荷や変化はなかった。身体もほぼほぼ恢復したのだろう。だからといって短距離走をする酔狂さはないが。とはいえ、仕事内容は大して負担があるものでは無いので、少なくとも今月中は体力的に消耗することはなかろうと思われる。環境が変化する来月からは判らない。文字通り「全ては神のみぞ知る」だ。

二月の冒頭から多様な意味で体の調子が良くない。厄年ではないが、色々と不都合が出てくる頃のだろうか。自分と自分自身と向き合うというのは、今までも書いてきたが、非常にストレスで難儀なものだ。しかし、最終的には自分のその有限性と対峙しなければならないと判っていながらですら……。

大江健三郎『晩年様式集』を引き続き読む。「カタストロフィー委員会」が発足し、ギー・ジュニアが本格的に登場してくる。彼が『懐かしい年への手紙』『万延元年のフットボール』を読んでいることは前章以前で語られていたが、ここでは『「雨の木」を聴く女たち』についてのギー・ジュニアの読書体験が古義人へのインタヴュウという態で開陳される。節、そして章自体は短いのだが、その内容は複雑で多岐にわたる。無論、『「雨の木」を~』に頻用されているマルカム・ラウリーに関しても話題は費やされる。

 

今年の初め、大江が亡くなる前、私は『芽むしり仔撃ち』を再読していた。何故なら、そこには戦争と疫病が描かれていたからだ。戦争はウクライナ戦争、そして疫病はCOVID-19を想起させる。それは単純な対比かもしれないが、件の作家初長編(実際は中編程度の長さだが)を通じて、現代を小説から捉え直し、かつその小説を今また読むことへの意味づけを自分に見出す文章を書こうとしていた。そして、その文章は嘗て自分も微力ながら創刊に関わった同人誌の最近号に掲載してもらうつもりであったが、こちらの勝手な都合と不義理によって、それも叶わなくなってしまった。端的に自分の所為だとは言え、今、このタイミングで、私が大江に関して書いたであろう文章が、少しでも広く人の眼に留まるであろう好機を逃してしまったことを残念に思う。無論、それ以前に不義理を働いたことにも。

 

処方してもらった点鼻薬が効いているからか、鼻の通りが以前よりよく、香りも強く感じる。なので、毎日ガブガブと濃いめに淹れたインスタントコーヒーを文字通り鯨飲するのが楽しみだ。コーヒーを鯨飲するなんて情緒も何もないが、コーヒー一杯で私のぼんやりとした生活は、多少なりとも明確さを保持している。