奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

やる気とスポーツ

来月から始まる新年度に、自分の後任として現在の職場に異動して来る社員は、自分よりも上のポジションであり、また自分よりも若い。また、自分よりも遥かに有能であるのだろう。ある管理者が、自分の現在の勤務先を数日前に訪れたそうだが、その時件の社員はやる気に満ち溢れていると賛していたそうだ。その時、自分はといえば、文字通り呼吸困難で、自宅でひっくり返っていたのだが……。

夕食時、ワールドベースボールクラシック準々決勝を何とはなしに観る。野球のルールも大して判らないが、スポーツが人々を熱狂(グラウンドの観客席然り、テレヴィやラジオ、ネットの前の視聴者然り)させる様を眺めるのは不思議な気分だ。野球人気が高い国柄のためか、WBCに関しては開催される前から、各種テレヴィ・ワイドショウのスポーツ・コーナーで下馬票を競うが如く延々と話題にされていた印象がある。もちろん、それもまたプロモーションの一環だったのだろうけれども。

合間のCMで、来月4月にはフィギュアスケートの大会があり、また、まだ数箇月先だが七月には水泳の大会があると頻りに宣伝していた。気が早いのか、それとも例えばスケートといえども、ウィンターシーズンのものではなく、設備さえ整っていれば通年大会が開催されることが出来るということに対して、当たり前だと思うと同時に奇妙な感じを覚えたのかよく判らない。人が一生懸命何かを行い、それを視聴して熱狂する様子を揶揄するのは失礼千万であるし、全くの野暮である。だが、そうした一生懸命さも熱狂も理解出来ながらも、それは自分の中では異質なものなのだと感じるある種の疎外が自分の中にはある。向こうから疎外されているのか、こちらが疎外しているのかは明瞭ではないが。

日中、気分を変えようと思って村上春樹『職業としての小説家』を数頁再読。どちらかというと気軽に読める類のエッセイ。有名な神宮球場で小説を書いてみようと思い立つシーンも出て来る。

帰宅すると、大江の『晩年様式集』の続きを読む。ギー・ジュニアが東京で本格的に活動し始め、ギー兄さんと古義人を巡る剣呑な妄想が妹のアサから話される。過去と向き合うことの苦しさと辛さ、しかしそこにこそ、「3・11後」、余震と放射能の危険に怯える中で、生きていこうとするヨスガがあると信じる登場人物達の姿勢や心情が生々しく、切実に伝わってくる。作品は完結した時点で終わりではなく、関係者に読まれることにより新たな意味を伴って作者に迫ってくる。それはもはや、re-readingなどといったなまやさしいものではない。フィクションとして故意に歪曲し、虚構化した作品内の過去に作者と、更にはその関係者の現在が苛まれるという、その展開にしても、大江のレイト・ワークが並々ならぬ苦闘の成果だと、読者は感じ取らずにはいられないのだ。