奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

軽薄さと愚かさ

年が明けた。

寒さも身に沁みる中、皆さん如何お過ごしだろうか。

年が改まっても、それは月が変わった程度にしか最近は感じられなくなっており、それでも自宅や職場に注連飾りや鏡餅を飾ったり供えたりすれば、気分もそれとなく高まるような年末年始だった。

昨年を振り返ると、まあ、色々と反省点も多いし、落ち込むことも(柄にも無く)多いので、そうしたものからは眼を瞑っていきたい。人は未来に向かうのを恐れているばかりではない。過去にこそ、恐れるもの、蓋をしてしまいたいものが積み重なっているのだ。

去年で個人的に一番大きかった出来事は、立花隆のが亡くなったことだったように思われる。

昨年、二つの同人誌に参加したが、その執筆者後書きで、両方とも立花の物故について極簡単にだが触れている。昨年亡くなった著名人は当然多数いるが、矢張り何か改まって自由テーマで書く機会があれば、立花について書いていたのは、意図したことと云うよりは、それが自身にとって大事だったからだろう。

難しいことを簡単に書く。分かりやすく書くということは、実に困難なことだ。しかし、古くはプラトンの対話篇を引くまでも無く、そうした営為にこそ、真の知性は発揮される。それについて何も知識がない人、考えたことも無い人、また考えるにはハードルが高いことに関心を向けるよう促し、そして実際に考えてもらうよう導くことは大変な労力と技術と知力を伴う。そして、凡そ多くの人は元から考えず、また人は考えなくなり、更には考えを促すことを放棄する。或いは、古典からのちょっとした引用や、抽象的な文言などの小手先の技術によって、自らが知的な人物であることを演出し、関心(感心)を買おうとする。ある年代までは、そうした「背伸び」や振る舞いは決して無駄では無いのかもしれないが、いつまでもそうした振る舞いに及ぶのは、端的に愚かであろう。誰しも自分は賢いと思いたい。しかし、その願望とは裏腹に、大方の人々は凡庸である。自分も含めてそこに気づけない、また気づいたとしても知的営為の難しさに謙虚になれないのは、軽薄で愚かなことである。立花の仕事は、裏返して、そのような人間の軽薄さや愚かさをも照らし出しているように思えてならない。

そんな軽薄さと愚かさは、実はどの時代にも共通なものだったのかもしれない。しかし、凡そ自分の見渡せる範囲でも、自分を含めてそうした軽薄さや愚かさが見つかる。立花の著書はその時々の事件をテーマにしたジャーナリスティックなものも多いが、それさえ今となっては歴史的資料であると同時にノンフィクションの古典だ。それらは、直ぐに自分自身の現実的問題を解決し、生活を向上させるものでは無いが、ふとして周囲に瀰漫する軽薄さや愚かさに気づき、注意する一助となるのではなかろうか。

人のすることは変わらない。そして人は変わることが出来ない。そうした認識から新年を機に出発したいと思う。