奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

戦後民主主義と自己形成

スクランブル交差点を小走りで渡り切っても息切れもしなければ、体調に異常がみられない程度には自身も恢復してきたようで、あとは急激な運動をしないこと、というよりも細かい運動を継続して毎日行えられればベターなのだろうが、今の所続いているのはラジオ体操第一くらいだ。

休み前に管理職相当の人物と給与と金の話をしたからか、それとも昨日久しぶりに飲酒をした影響からか、何だか気分が鬱々とした一日だった。

朝、「サンデーモーニング」の一コーナーで大江健三郎追悼特集をやっていた。番組の趣旨からか、どうしても作家の政治的な意見、パフォーマンスにフォーカスした作りになってしまうのはやむを得ないのだろうか。大江が物心ついた時には、戦争は終わっていた。そして作家は意識的に戦後民主主義の寵児としての自己と(誤解を恐れずにいえば)地位を確立していった。しかしそれは、大江の同時代史的なもの、つまり生い立ちと共に、彼が小説家だったことが多分に多くを占めた帰っ化でもあると思われる。大江の特異性の一つは、その作家的想像力によって政治というものが内包する情念を捉え、表現することにあると思う。それは裏を返せば、オナニーなどの性的なものと不可分であり、また理想を掲げた集団が陥る内ゲバ・リンチ殺人という非常にグロテスクな側面とセットである。また、右派左派といった個別のイデオロギーも関係はない。なので、作家は、「セヴンティーン」「政治少年死す」、そして『洪水はわが魂に及び』などの諸作を書くことが出来た。

大江がはっきりと第二次世界大戦、その戦闘を描いたのは、『同時代ゲーム』内において「村=国家=小宇宙」が大日本帝国と戦闘状態に陥ったエピソードとしてだろう。(『芽むしり仔撃ち』は戦中の疎開が舞台だが、戦争は余りに作品世界を大きく取り巻いているので、後景化している印象がある。しかし脱走した日本兵やそもそも疎開といった出だしなど戦時色は強い。)大江は文字通り戦後の作家としてそのキャリアをスタートさせた。そして、戦後の色濃い暗澹たる青春小説の佳作を多産した。その中には、自分は戦中世代に遅れてきてしまったという戦後世代の裏面的心情を反映させたものすら少なくない。

少年期、自我が芽生えつつあった大江にとって、周囲は既に戦後だった。それは、戦争直後という意味でもあり、価値観もインフラも社会も国家も、そして人間も破壊し尽くされた場所だった。そうした中から、戦後民主主義を一つの柱として、日本が復興してゆくのに合わせて、若者としての自我を形成してゆき、外国語の翻訳を通じて、自分の日本語を形成していった。大江少年のビルドゥングと、日本のビルドゥングは、同時代的に重なっていたのである。