奥津城まで

所謂日記だ。ブログには何度もトライしては挫折してきた。出来ることなら長く続けたいと思い、上のようなブログ名にした所存。

「ゆるさ」と自由、そして哲学のスタイル

東浩紀著『観光客の哲学 増補版』(ゲンロン)が届いた。「はじめに」、各翻訳に書き下ろされた序文に、新章二章を加えた充実の一冊だ。パンデミックが起こり、戦争が始まって、一見すると「観光」の危機のように思われるが、しかしその内容が提起する議論はいまだに色褪せていない。寧ろ翻って、「観光」「観光客」を鍵概念とした哲学の提示は、その重要性を増しているよに思われる。もしくは、『ゲンロン0 観光客の哲学』が出版された六年前と較べてその問うている議論の意義が変わっているとも言える。

 

私は著者の熱心で良い読者ではない。東の著者を初めて読んだのは、自分の世代にはおそらくよくあるようにそのデビュー著作である『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(新潮社)である。帯に書かれた浅田彰の文言はやはり印象的であった。

ついで『動物化するポストモダン』、『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』、そしてメルマガ等で発信された『波状言論』や『網状言論』から、『ファウスト』(講談社)での評論家育成企画などまでを一読書人として時折読んできた程度である。

なので、氏がコンテクチュアズを創業し、『思想地図』(NHK出版)からタイトルを引き継いだ『思想地図β』は当時未読だった。そして東日本大震災が起きた。

 

氏の活動に再度注目するようになったのは、実は『ゲンロン0 観光客の哲学』からである。当該の著書は、『一般意志2.0』『弱いつながり』の内容を引き継ぎ、著者の本格的哲学書として観光された。一読、これは全く新しい哲学書だと強く感じた。そこでは、人文学者としての哲学の訓練と、今までの著作活動の実績、そして人生経験の上に築かれた、著者らなではの深く広範な、そして現代を論じながらも過去から未来さえ見通そうとする議論である。しかも、過去の哲学者や現代の数学論を引用しながらも、非常に自由な文章スタイル。氏のいう「ゆるい」哲学がそこにはある。

 

「ゆるい」とは、つまりは自由ということだ。しかしそれは単に野放図、無秩序、身勝手とうものではない。確かな哲学的学識と、広い好奇心と、使い洞察、そして緻密に構築された議論に根ざして、それを自由に、多くの人々に届くように苦心して書くことである。そうした文章は「ゆるい」。しかし、その「ゆるさ」とは、なんと重い「ゆるさ」だろうか。自由であること、自由を引き受けることは、かくも途方もない責務を引き受けることなのだ。

そうした「ゆるさ」つまりは自由に書かれた『観光客の哲学』が、装いも新たに読めることは大変喜ばしい。しかも、その議論は深まり、かつ「家族の哲学」として、次著である『訂正可能性の哲学』へと繋がっている。哲学は自由に変化していく。それは人の生き方が変化することに似ている。人は生きてゆくにつれ、変化していかざるを得ない。そして哲学は生きられねばならない。そうであるならば、哲学もまた自由に変化して然るべきである。

氏の今後の仕事が、そうした困難な生を励ますものになることを期待してやまない。